壮大な喩え話という表現手法

僕がある文学賞をいただいたことは先日のエントリでお知らせしたとおりですが、そのエントリに触れて、僕が小説という形式の表現形態を模索していることについて違和感を感じた方も多いことでしょう。僕は今までのところ、技術解説書の執筆やWeb関連雑誌への寄稿、講演、そしてこのブログ、という形式で表現を行っており、創作の一形式である小説とはおよそ相容れないような形で表現を行ってきたからです。

そもそも、小説も含めて物語というものは、いわば作り話であり、それが作り話であって事実ではないということを理由に、小説の価値を評価しない人々がいます。例えば、ここ数年の僕がそうです。実際に小説や物語などというものは、実利には直結しませんし、読んですぐ役に立つ、ということはほとんどあり得ません。

とはいえ、物語にまつわる疑問には尽きない興味があります。例えば次のような疑問です。

  • 伝承のほとんどが物語の形式で伝わっているのはなぜか?
  • 子供たちが物語の読み聞かせをねだるのはなぜか?
  • 世界中の神話や教典のほとんどが物語か対話の形式になっているのはなぜか?
  • 世界中の人々が、娯楽や教養として映画や小説を楽しむのはなぜか?
  • 難解な指南書を通読するのは難しいのに、手に汗握る展開を見せる小説を読了するのがあまりにも簡単なのはなぜか?

こうした疑問の数々は、物語に触れて興奮を覚えた人であれば、抱いたとしてもそう不思議なことではないのではないでしょうか?
そして、僕が上記のような疑問に答えるものとして考えていることは、およそ次のようなことです。

  • 物語という形式はとてもわかりやすい
  • 物語を欲し、物語を通じた疑似体験を求めるのは人間の根源的な欲求である
  • 事実や考察をただ積み重ねて語るよりも、それを物語に乗せて語る方がパワフルである
  • 物語は人の理性だけでなく感情にも強く訴えかけることがきる
  • ごく単純に、物語は面白く、人を興奮させる

つまり僕は、すべての物語を「壮大な例え話」として認識しているんです。すべての物語というものは、作り手の世界観やイズムを他の人々にとってよりわかりやすく伝えるために最適化された壮大なメタファーであり、壮大な例え話である、と。僕が物語というものに強い興味を持っているということは、実は以前にも少し書いたことがありますが、僕は、ストーリーをともなうフィクションこそが表現の究極の形なのではないかと考えている節があるんです。

もう少し説明しましょう。例えば、スター・ウォーズはタオイズムを伝えるのに最適な解の一つでしょうし、北斗の拳は愛や友情を伝えるのに最適な解の一つでしょうし、フォーサイスの一連の小説作品は社会の暗部を伝えるのに最適な解の一つでしょう。それらに共通しているのは、どれも楽しく、単純な娯楽として楽しむうちに、その世界観やイズムに引き込まれてしまう、ということです。こうしたことは、僕が今まで手がけてきたような実用的な文章ではとても実現できない種類のことで、個人的には非常に興味があります。

理論や解説の必要なく、誰もが単純に楽しむことができるようなわかりやすい物語(多くの場合エンターテイメントとして提供される)は、完成された表現の一形態でしょう。そして、物語の表現形式には、小説の他にも、映画や漫画や演劇など多数の形式があり、それぞれ優れた点があります。その中にあって、小説が特に優れていると思える点は、他の表現形式と比較して、小説は人間の内面に迫ることに適している、ということでしょうか。

僕は、自分の表現としての小説に、芸術性は求めていません。しかし、何かしらの世界観やイズムを表現するために、より楽しく、より心を打ち、より記憶に残るものにしようとすれとき、壮大な例え話である小説という形式を採用するのはそう不自然なことではないと考えています。こうした表現は、いわゆる芸術ではないのでしょうし、いわゆる文学愛好者には好まれないものなのかもしれませんが、僕自身では新しい試みとしてとても興味を持っています。

そんなこんなで、今の時点では忙しくてそれどころではないものの、少し落ち着いてきたら、本格的に小説にも取り組んでみたいなあ、などと考える今日この頃です。