時代時代によって、大衆にとっての「リアル」は変化し続けています。少し例を挙げるなら、19世紀後半に生きた人々にとっては、肺結核はリアルだったでしょう。戦中を生きた人々にとっては戦中の動乱が、戦後の混乱の中に生きた人々にとっては闇市や進駐軍や愚連隊がリアルだったでしょう。戦後の復興期に生きた人々にとっては安保闘争や暴力団の抗争がリアルで、高度成長期に生きた人々であれば企業戦士や覚醒剤が、バブル期であれば過労死や財テクが、バブル崩壊後であればリストラやワーキングプアがリアルです。
そして小説家というのは常に、その時代の大衆にとっての「リアル」を作品という形に結晶させてきました。例えその作品が、現実とは異なる世界を舞台にしていたとしても、はるか過去や未来を舞台にしていたとしても、同じことです。小説というのは常に、その作家が生きている時代や、作品が生まれた時代がもっている抑圧感や高揚感などの空気をすくい上げ、登場人物の物語という形式を借りて、その時代を生きる大衆に要請されるままに、その時代を表現するもののではないかと思うのです。
僕がここで言っているのは、学者や評論家や一部のマニアだけを満足させるために作られる芸術としての文学の話ではありません。そうではなく、ここで僕が言っているのは、より多くの人々に読まれ、より多くの人々の心を動かし、より多くの人々の人生をより生きやすいものにするようなもののことです。それらは陳腐で通俗的なものかもしれません。しかし、芸術的でなくとも、多くの賢くない人々の心を打ち、それらの人々に娯楽と生きる勇気を与えるものです。
そうした小説作品は、作家の独りよがりな姿勢や内面との対話から生まれるのではなく、その時代や想定される読者との(仮想的な)対話の中で芽吹き、まさに時代や大衆の要請によって生まれるものだと僕は考えます。この意味では、ケータイ小説作家の仕事として佐々木さんが指摘した集合的無意識をすくい上げ、それを小説という表現メディアに文字として固定化させること
というのは、何もケータイ小説作家に限ったものではなく、多くの人に読まれるすべての小説の作家について同じだと僕は思うのです。
そして、ケータイ小説が書かれる現代において、その読み手たちにとってリストカットや援助交際がリアルなものであるなら、現代のケータイ小説作家たちがそれを語るのは、なんら不思議なことではありません。つまり、時代の要請に従って、ケータイ小説はリストカットや援助交際を物語っているのであって、それは時代の要請を受けて書かれているという点で、過去のどんな小説とも同じ構造に基づいていると僕は思うのです。つまりそれがケータイ小説であろうと従来型の小説であろうと、作家は同時代を生きる人々の集合的無意識をすくい上げているという点で同質だと僕は考えているわけです。
しかし僕は、ケータイ小説には何も新しさがないとか、否定的なことを考えているわけではありません。むしろ、小説の表現手法にケータイ小説という形式が加わることで、小説そのものに新しい方向性が生まれるかもしれないということに興奮しています。つまり日本では、ケータイ小説という形で、読者とのコラボレーションによって綴られていく小説世界というものが表出しつつあり、それが世界に先駆けて一定の成功を納めている、ということに興奮するのです。
1992年、筒井康隆氏は朝日新聞の連載小説「朝のガスパール」執筆にあたり、パソコン通信ASAHIネットの会議室「電脳筒井線」とコラボレーションしながら執筆を進めていくという手法を採りました。今から15年も前のことで、それは実験的な試みとしては注目を集めましたが、後に続く作家がいなかったところをみると、商業的にはあまり成功ではなかったのでしょう。しかし今、読者とのコラボレーションで綴られていくケータイ小説は、商業的にも一定の成果を残しています。
僕は、ケータイ小説に、「読者とのコラボレーション」という新しい可能性を見ています。ケータイ小説は、読者とのコラボレーションによって綴られていくというその一点において、従来の小説の壁を一枚破ったと言っていいでしょう。ここで重要なのは「ケータイで書かれた」とか「ケータイで読まれた」ということではなく、読者とのコラボレーションによって綴られた、ということです。
僕は、今年ある文学賞を受賞して気をよくしている素人作家としての一面も持っていて、これからも何か小説のようなものを書きたいと考えているのですが、次回作について考える中で「読者とのコラボレーション」というアイデアには非常に興奮させられます。僕はプロとしてデビューした商業作家ではありませんから、自分の作品を無料でネットに公開することに躊躇はありません。逆に、公開することで、その作品をよりよいものにするためのヒントを読者から直接得られるなら、積極的に公開すべきだとさえ思います。
現在は、人類史上で最も、文字によるコミュニケーションが活発な時代だそうです。今までのどの人類よりも、今の僕たちは文字を読んでいる、というわけです。その僕たちが、小説のありように新たな一幕を加えるというのも、一つの大きな課題として考える余地がありそうです。