問いかけることは、人間の本質の一部かもしれません。僕たちは皆、思春期や新入社員だった頃には、自分自身や自分を取り巻くすべての「当然とされていること」に対して疑問を持ち、ある時は自分自身に、ある時は他者に、問いかけてきました。例えば、「僕はなぜ、何のために生きているのか」「この仕事はなぜ、何のために存在しているのか」「人はなぜ、何のためにお金を欲しがるのか」「この音楽はなぜ、僕の心を奮い立たせるのか」といった様々なことです。しかし、これらの問いは永くは続きません。毎日をただ生きることに忙殺され、安易な答えで満足してしまうか、または思考停止に陥ってしまうからです。
誰だって、現状に完全に満足しているということはなく、何らかの変化を求めているものです。しかし実際には、「どう変化すればいいのかわからない」ことが理由で、変化できずにいます。どう変化すればいいのかわからない、というのは、先にも述べたように、安易な答えで満足しているか、思考停止に陥っているかのどちらかです。そして、その状況を打破するには「問いかけること」というのはとても有効なことです。トヨタ式の「なぜ?を6回繰り返す」や禅問答の「公案」の例を引くまでもなく、問いかけとそれに応えることは、人の思考を本質へと向かわせます。問いかけをやめることは、考えることをやめることであり、その状況下では変化の芽さえ摘まれてしまいます。
ここに、日本能率協会マネジメントセンターによる「自己マスタリー」をテーマにした本があります。「エミーとレニー 2匹のねずみのお話」(デービッド・ハチェンス 著)です。この本では、よくありがちな説教臭い寓話形式で、主人公のレミングたちが自分たちのあり方を問い、問題を発見し、解決する様子が描かれています。本来のテーマは自己マスタリーですが、その道程の一つとして「問いかけ」「ディスカッション」が効果的に用いられており、読者はそれらの重要性を論理的にも感覚的にも理解させられます。特に、登場人物(正確には登場レミング?)の中には、問いかけを発しないか、問いかけを受けても自己を見つめ直すことのない、いわば思考停止した者が多く出てきて、それらはアイロニーたっぷりに描かれているのですが、そのアイロニーにはドキッとさせられます。自分の姿が重なってしまうのです。
また、内容とは直接の関係はないのですが、「物語」の持つパワーもあらためて感じました。どうにも僕は素直ではない面が強いようで、この種の寓話形式の自己啓発本というのは好きになりにくい傾向があります。やはりこの本も例外ではなく、説教臭さと著者の欺瞞的な雰囲気が鼻についてしまって、ちょっと辟易しながら読み進めたのですが、それでも、ユーモアやアイロニーを含めながら物語として語ることというのは、読者により深い理解をさせやすいものだと感じました。論理的な理解だけでなく、感覚的な理解を求める際には、物語というのは、やはり圧倒的な力があるものです。物語や寓話というのは、昔から道徳観や宗教観や政治観を植え付ける際によく利用されますが、これは理に適った効果的なやり方だと直感的に思います。
感じることは人それぞれだと思いますが、僕はこの本によって、「思考停止しがちな自分」と、再び思考を開始するために「問いかけ」が重要であること、そして(あまり関係ないですが)物語や寓話の形式を使って説明することの有効性を再認識することができました。読後感はあまり好ましいものではなかったため、積極的に認めたいとは思いませんが、僕にとっては、まずまず役に立った本です。