西国巡礼の満願と「修証一如」

先日の11月5日は、僕の35歳の誕生日でした。僕はこの日、無事に西国霊場を満願することができました。西国霊場は日本における観音霊場の端緒であり、どの時点を霊場の起点とするかにもよりますが、現在と同じ形での巡礼が成立してから数えても800年以上の歴史を持った霊場です。

現在に至るまで数え切れないほどの多くの人が巡礼してきましたし、その信仰の篤さは、難所が多く距離も長い西国巡礼の代替として板東霊場や秩父霊場などの写し霊場が全国各地に成立し、それらもまた盛んに巡礼されていることなどからもうかがい知ることができます。

僕が西国霊場の巡礼を発願したのは昨年(2005年)の5月23日、大阪の四天王寺でのことでした。それから約1年半、コツコツと巡礼を続け、ついに先日、満願を迎えたというわけです。巡った寺院の数は、あまり有名でない番外札所を含めて38ヶ寺を数え、その移動範囲は、南は那智、西は姫路、北は舞鶴、東は揖斐にまで及ぶという広範なものでした。仕事の合間を縫って巡った旅は厳しいものでしたが、ついに満願を迎えることができました。しかしこれも、僕にとっては旅の途中の出来事の一つに過ぎないのかもしれません。

そもそも僕が巡礼を行う理由には、特に定まったものがあるわけではありません。陳腐な言い方をすれば癒しの旅とでもいうようなものであって、仏様との結縁を目指すというような信仰心に支えられた信仰行動でもなければ、逼迫した状況を改善するための祈願の巡礼でもなく、苦悩から逃れることのできない今生への諦観から来世で浄土に生まれ変わるための死出の道中を歩む、といったものでもありません。僕は、感謝の気持ちを忘れないための装置として寺院や巡礼を捉えており、また心を豊かにする観光としても巡礼を活用しています。

キリスト教やイスラム教における巡礼が聖地を目指して直線的に移動するのに対し、日本の仏教における巡礼は「霊場巡り」「札所巡り」とも呼ばれるように、目的地は一カ所ではありません。四国の八十八カ所や、各地の観音巡礼の三十三カ所、不動尊巡礼の三十六カ所、薬師巡礼の四十九カ所、十三仏巡礼の十三カ所、といったように、霊場内の複数の寺院(札所)を巡回していきます。さらには「何巡目」などといって同じ霊場を何度も巡るようなこともします。日本の仏教における巡礼は、座禅行や写経行などと同様に修行の一種とされており、したがって終わりもなく、ただ実践し続けるだけのものです。

日本の仏教における巡礼には明確な目的地がありません。順打ち(札所を一番から順に巡っていく巡礼方法)で巡る場合には、最後に訪れる寺院が満願打ち止めの寺となりますが、順打ちにおける満願打ち止めの寺も、二巡目、三巡目への道標に過ぎません。また、そもそも順打ちをせず、巡りやすい順で巡礼をすすめた場合には、満願を迎える寺院は変動します。どこかに明確な終着点が存在するものではなく、終わりのない旅のようなものなのです。

この終わりのない旅はしかし、僕にとっては「修証一如」を常に思い出させてくれる有り難いものになっています。修証一如というのは、曹洞宗の道元禅師が正法眼蔵の中で説いたもので、修と証、つまり修行することと悟りを得ることは同じものであり、別のものではないということだそうです。別の言い方をすれば、実践と理論は不可分であるということでもあるとか。どうでしょう、別に仏教に限った話ではなく、例えば仕事などでも、理論だけで実践がともなわない人というのはあまり感心しないと僕は思うのですが、しかし、僕たち(僕だけかな?)は、少し気を抜いていると修証一如が崩れてしまうように思います。

そこで僕にとっては、巡礼が役立つのです。とはいえ僕は、巡礼中であろうと(いつも何かしらの巡礼中なわけですが)関係なく、肉も魚も食べますし、巡礼よりも食事や睡眠や仕事を優先しますし、いつもだらしない服装でヒゲも生やしていますし、酒も飲みますから、真面目な巡礼者というわけでもありません。それでも、たまに、ほんの少し巡礼者のまねごとのようなことをすることで、実践と理論は不可分であるということを思い出させてもらえるというのは、とても有り難いことです。霊場に足を運ばずに巡礼を知ることはできないという当然のことや、また霊場に足を運びたいと思う気持ちが、修証一如を思い出させてくれるというわけです。

はっきり言って巡礼は、座禅や写経などと同様に、それをしたからといって幸せになれるとか悟りを開けるとか成仏できるとかいうものではありません。ただただ続いていくだけのものです。少なくとも僕に関して言えば、巡礼して幸せになったとか、病気が治ったとか、例えば今回であれば西国巡礼を満願したから何かが変わったとか、そうした明らかな変化は何もありません。以前に近畿三十六不動尊巡礼を結願したときも、目に見える変化は何もありませんでした。ただ「実践あるのみ」ということを再確認するだけです。

でもまあ、いいじゃないですか。巡礼が終わりのない旅であるのと同じように、人生だって死ぬまで続く旅のようなものです。ただ実践あるのみ。修証一如。これからもただ旅を続けていこうとあらためて思った、誕生日の西国巡礼満願です。