僕が個人的にとても尊敬している人の一人に、高木敏光さんという人がいます。簡単に説明することなどまったく不可能な、いろんな意味でもの凄い人です。その高木さんが過去ネット上で発表した文章に「ササイのことで思い出した」というものがあるのですが(残念ながら現在は非公開)、去年の8月、ひょんなことからそれを再読しました。僕がその時に再読したのは、471ページもの量のPDFにまとめられたものです。
僕は文章というものに関しては、このブログの読者の皆さんであればすでにご存じの通りですが、あまりよい書き手ではありません。それはやはり、読み手としての僕があまりよい読み手ではない、ということに起因しているのでしょう。その「ササイのことで思い出した」についても、僕はその内容や感想についてうまく表現できるほどには読み込めてもおらず、また表現するだけの筆力もありません。
ただ、その「ササイのことで思い出した」の中に描かれていた、文学者を目指す青年とその周辺の狂騒については、深く僕の心に残りました。僕もまた、子供だったと苦笑する他ないほど若かった頃、小説のようなものをものしてみたいと考えていた時期があったからです。高校を卒業する前後くらいが、そのピークだったでしょうか。ありがちですね。ただし、未完の習作のようなものを書き散らしたりしたのはその頃が最後で、それ以来、フィクションを綴ることはほとんどありませんでした。
そして去年の晩夏の頃だったか、僕は高木さんと再会しました。確かアックゼロヨンの審査員を一緒に務めたことがきっかけだったと思います。これは刺激的でした。それと前後するように、僕もまた何か書いてみよう、などと思ったりして、「ササイ」に倣って自伝的なものをメモ的に書いては消し、といったことを数回繰り返しました。しかし時間も取れず、考えもまとまらないまま、気持ちだけが先走っていて、まあ、空き時間を無為に過ごした、という以上のことは何もないまま、時間は過ぎ去っていきました。せっかくいただいた刺激も、その時は何も生み出さなかったわけです。
僕の気持ちと行動に大きな変化が現れたのは、その年の12月も終わりに近づいた頃、毎月月末に堺市内の各戸に配布される堺市の広報紙が届いたときでした。そこには「堺自由都市文学賞」という小さな文学賞の応募締め切りが年明け早々にせまっている、という案内が、小さく掲載されていました。ささやかな興味を持ってネットで調べてみると、大まかに次のようなことがわかりました。
- 短編の都市小説(ただし舞台は堺に限定しない)を募集していること
- 新人またはそれに準じる人に応募資格があるとはいうものの、前年度の第一席入選者は脚本家だったりと、そうレベルの低いものではなさそうなこと
- 堺市と堺市文化振興財団が主催で、大阪府や読売新聞大阪本社が後援していること
- 近年では300点前後の応募作があること
- 田辺聖子氏・藤本義一氏・眉村卓氏・難波利三氏という在阪の大家が選考委員を務めること
この賞の存在を知った時点で、すでに締め切りまで3週間を切る程度しか残されていないという状況でしたが、原稿用紙50〜100枚程度の短編、ということで、それくらいの量なら年末年始の休暇を使って一気に仕上げられるのではないか、と安易に考えた僕は、この賞に応募することを決めました。
とにかく応募。僕はただそれだけを考えました。まずは第一歩を踏み出さないことには、二歩目はありません。しかし応募を決めたとはいえ、絶対的に時間が足りません。そこで僕は、舞台について新たに取材することなどは諦め、この文学賞の主催自治体であり、僕の現在の居住地でもある堺を応募作の舞台にすることに決めました。身近なところということで、いくらか勝手のわかる最寄りの市街地である堺東の商店街あたりを舞台に選びました。
内容のほうも、やはり取材時間が取れないために、知らないことは書かないことにしました。また、自治体主催であることから、新奇性や芸術性などは追わず、救いのある簡潔な結末にする、という大まかな方針を考えました。過去の受賞作のうちインターネットで読めるものを読み、傾向を調べて対策を練りました。このあたりは、普段のマーケターとしての思考に限りなく近い組み立て方です。僕は与えられたテーマに最適化して、効率的かつ戦略的に物語を紡ぐことを考えました。テーマが都市小説であることと、商店街を舞台に決めたことなどからさらに考えを発展させ、商店街の衰退と後継者問題を、応募作の中心的なテーマにすることに決めました。
幸いにも僕は雑多な職業を数多く経験しているため、取材なしに描くことのできる職業は数多くあります。その中からテーマに合いそうな職種を選び、同時に応募作のタイトルを決定しました。短編ですから、それほど複雑な構成を用いることはしませんでした。数名の登場人物といくつかのシーン、いくつかの伏線を考え、堺の歴史や風物を織り込み、多少ご都合主義的にも思えるような結末を用意し、構成を考えながら執筆を開始しました。構想3〜4日、執筆は10日ほど、という期間で約60枚ほどの分量を書き終え、締め切りの直前に駆け込むように応募しました。
僕の今回の目標は「とにかく形にして、応募すること」でした。その意味では満足です。僕にとっては、完成させるということ自体がハードルの高いことだからです。過去に小説をものすことを志向した際の僕は、書き始めても完成まで漕ぎ着けることすらままならず、未完の習作ばかり積み重なる、という程度のものでした。そうしたことから考えれば、今回無事に応募できたことは、動機や過程はどうあれ、僕にとって大きな一歩だったのは間違いありません。
無事に完成し、応募にまで漕ぎ着けたことに気をよくした僕は、最初の一歩を確実に踏んだ手応えを感じ、気が向いたらまた小説を書こう、という気持ちを胸に、また多忙な毎日へと戻っていきました。それが、今年の1月のことです。
文学賞に応募したことなどすっかり忘れていた先週の水曜日(6月27日)の夜、堺市文化振興財団の担当者からの突然の電話に出た僕は、僕が送った応募作が賞の最終選考に残っている、ということを知らされました。そして、確かにそのその応募作が僕が書いたものであるかどうか、他の賞への二重送稿はないかどうか、未発表の作品であるかどうか、といったことを確認する質問を受けました。そして、その翌週の水曜日(7月4日)の夜が最終選考会であることを伝えられ、入選した場合にはすぐに電話で通知するとのことで、その日その時間に連絡の取れる電話番号を訊ねられました。僕は自宅の電話番号を伝えました。
果たして今週の水曜日、最終選考の日の夜、伝えられていた時刻よりもかなり早い時間に僕の自宅の電話は鳴り、僕は自分の応募作が第一席で入選したことを伝えられました。
僕が今回の応募作を書いた直接のきっかけとなったのは、タイミングよく届いた市の広報紙でした。しかし冒頭で書いたように、それ以前に高木さんやその作品である「ササイのことで思い出した」に触れていなければ、今回の応募作は生まれていません。僕の応募作は、高木さんに対する嫉妬や負けん気、厚かましいライバル心のようなものが生み出したといっても過言ではないでしょう。実際、執筆当時のモチベーションの大半はそれでした。
そこに、思いがけず届いた第一席入選の知らせ。今、僕の目の前には、受賞者の声として発表するための質問集のようなものがあります。その内容には、「応募した動機」「作品づくりのうえで苦労したところ」「作品づくりのうえで力点を置いたこと」などの項目が並んでいます。それらに正直に回答するなら、動機は高木さんの存在であり、苦労したことはとにかく完成させることであり、力点を置いたことは賞の趣旨に対して戦略的に物語を最適化することでした。どの質問項目も、正直に回答しようとすればするほど、僕の回答はあまりにも矮小で、惜しくも入選に漏れてしまった他の応募者の方々に申し訳ないような気すらしてきます。
来週には僕の受賞インタビューが行われ、その内容は近いうちに読売新聞大阪本社版(近畿・中国・四国)に掲載されるそうです。僕はそのインタビューのために、先述の質問集に対して、嘘にならない範囲で格好のつく回答を用意するか、または、正直に回答する覚悟を決めるかしなければなりません。
そんなこんなで、来週行われるインタビューは、今まで受けたものの中でも最も手強いものになりそうです。
とはいえ、今までだって、人との出会いによって想像もつかない方向へと人生を転がし続けてきた僕のことです。今回の件についても、今回は高木さんとの出会いがきっかけだったというだけで、いつもの流れの一つなのかもしれません。受賞者インタビューについても、あまり狼狽しすぎないようにしないと。何にせよ、今回の一件によってさらなる新たな出会いもあるようですし、今後もますます、想像もつかない方向へと僕の人生は展開していきそうです。
なお、8月頃には応募作の全文が読売新聞大阪本社版に掲載され、同じ時期に Yomiuri Online のこの欄を通じて誰もが読める形で掲載されるそうです。11月には授賞式が堺市内で行われ、選考委員を務められた田辺聖子氏・藤本義一氏・眉村卓氏・難波利三氏に、受賞者の僕を加えたパネルディスカッションも行われるとのことです。緊張しますが、楽しみでもあります。