僕たち日本人というのは、年間を通して実に多種多様な宗教儀式に参加します。例えば、初詣、七草、節分、バレンタインデー、桃の節句、端午の節句、七夕、お盆、中秋節の月見、クリスマス、といった具合。最近ではハロウィーンや感謝祭も加わってきつつあります。
年中行事以外でも、受験の時には文殊さんや天神さんに願掛けをし、新車を買えば交通安全の祈祷をし、会社には神棚があり、家には仏壇があり、教会でキリスト教式の結婚式をし、家を建てるときには神職が地鎮祭を行い、人が死ねば仏式で葬式をあげ、死後は儒教よろしく先祖を奉ったります。
そのバラエティーたるや、神道、仏教、道教(節句など)、キリスト教、儒教(先祖供養など)と、非常にカオスなことになっていますが、これだけ多種多様な宗教儀式に参加していてなお、読売新聞の世論調査によれば、何かの宗教を信じていないという日本人は7割超にも達するんだとか。
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
多種多様な宗教儀式にさんざん参加しておきながら、なお特定の宗教は信じない、というこの日本人の宗教観というのは、よく言えばおおらか、悪く言えばグダグダで、まあ僕個人的にはとっても好ましいものなわけですが、日本人の宗教観がこんな強烈なことになった理由について、ちょっと私感を述べてみたいと思います。ここで述べたいのは次の二点についてです。
- なぜ現代の日本人にはいろんな宗教儀式に参加する人が多いのか
- なぜ現代の日本人には特定の宗教(または宗派)に帰依しない人が多いのか
まず一点目ですが、これはよく言われるように、日本に古来からあったアニミズム的な信仰に対して、あとから輸入された宗教が習合していったから、というのが理解しやすいと思います。
つまり、山や滝や海も、古木や巨岩も、太陽や月や星も、鍋や釜や包丁も、農作物や海産物や家畜や動物も、雨や風や嵐や雷も、先祖やいろんな神仏も、どれもまあ有り難く畏れ多いものだから、とりあえずまとめて拝んどくよ、という感覚なんだと思うわけです。
そうした感覚から、様々な宗教や神仏が次々に伝来しても、その都度「八百万の神様にまた仲間が増えたよ」的な気軽さで付け足されていき、七福神みたいなカオス過ぎる信仰も生まれたりとかして、さらには「今度は耶蘇権現か」とか「次は阿拉明神だよ」とかいう感じで、結果、おおらかな(グダグダな)信仰形態ができたんじゃないか、と僕などは思うわけです。
また、日本人は(為政者であるか民衆であるかを問わず)困りごとや願い事の種類に合わせて祈る対象を選ぶ、というようなこともします。いわば神仏の役割分担です。鎮護国家、五穀豊穣、武運長久から、航海安全や商売繁盛、福徳招来、家内安全、無病息災、学業成就、交通安全、当病平癒、極楽往生といった目的別に、それぞれ御利益や霊験の強そうな神仏を選ぶというわけです。しかも効果がなかったらすぐに浮気するというオマケつき。
そんな具合で、困りごとや願い事の数だけ(またはそれ以上に)祈る対象がたくさんあり、それらにちなむイベントも多くなってきますから、自然な流れとして、ありとあらゆる宗教儀式に参加することになります。しかもそれは矛盾する行動ではない。こうして、多種多様な宗教儀式に普通に参加してしまうという日本人の希有な国民性ができたんじゃないか、と僕などは思うわけです。
とりわけ、企業のマーケティング主導で「恋愛成就祈願、南無大聖バレンタイン大権現!」的な信仰(イベント?)まで生み出してしまうに至っては、もうカオス過ぎて言葉もありません。しかしこんなことは日本人的には普通。
そしてもう一点、なぜ現代の日本人には特定の宗教(または宗派)に帰依しない人が多いのか、ということについてですが、これは上述の宗教観と強い関連があるんじゃないかと思うんです。つまり、基本姿勢としては様々な有り難いものや畏れ多いものに対する敬虔な気持ちはあるし、御利益や霊験を求める気持ちもあるものの、「信仰対象をどれか一つを選べ」と言われると困ってしまう、というような。
基本的に日本人というのは、「何か一つを信仰しろ、他は一切ダメだ」的なことを言われると、そこで一気に萎えるものんだと思うんです。なぜなら、「でも他にもたくさん有り難いものとか畏れ多いものとか御利益のあるものとかがあるじゃんか」とかいうような感じで。
加えて、国家神道のトラウマもあります。日本人が先述のようにグダグダだと、国際競争(というか戦争)に勝てないということで、明治から太平洋戦争くらいまでの期間にわたっては、日本人全体の精神的支柱とすべく、国家神道が強制された時期がありました。しかし太平洋戦争が終結すると、GHQによって神道指令が出されて国家神道は解体(政教分離)、終焉を迎えます。
こうして結局は、国家神道の影響力はなくなり、日本元来の信仰に戻っていくわけです。しかし、この国家神道の経験が、戦後教育の影響もあってトラウマのようになり「どれか一つの信仰対象を選ぶ」ということに対して強い嫌悪感を持つようになったということも、日本人の多くが特定の信仰対象を持たないことの理由の一つだと思います。何しろ日本人は、特定の神さまに指示されて行動することについては、太平洋戦争で嫌と言うほど懲りているわけですから。
それにそもそも、いわゆる近代的・西欧的な「宗教」という概念が日本に伝わってきたのが明治期の話であり、それまでは神さまや仏さまに対する信仰はあったけれども、それは近代的な意味での「宗教」ではなかったわけです。おそらく民衆にとっては、仏教も神道も儒教も道教も耶蘇教も、そう違うものとは考えられていなかったはず。その頃から今まで、わずか100年程度しか経っていないんです。
今にしたところで、神社のご神体が勝軍地蔵さんだったり妙見さんだったりヒンズー教の神だったりすることも少なくないですし、お寺のご本尊が稲荷神だったり八幡神だったりヒンズー教の神だったりもしますし、お寺の中にお宮さんがあって僧侶が管理しているのも普通ですし、神仏分離以降の感覚では異常としか言えないようなことが普通の現実としてあるわけです。
つまりまあ、日本の宗教なんて、今もってかなり適当な(グダグダな)ものだ、というわけです。そもそも「宗教」という感覚すらないかもしれないくらい。これはかなりカオスな状況ですが、しかし、見方を変えれば日本ならではのユニークさというか、いいところも多いわけで。まあ、ここまで長々と述べてきましたが、言いたかったこと(僕の私感)をまとめると次の二つに集約されます。
- 日本人の独特のカオスな宗教観というのは、長年の歴史の上で醸成された概ね好ましい(というか楽しい)ものであるということ
- 日本人は無宗教でも無信教でもなくて、特定の信仰対象を選べないくらいたくさんの神仏を信奉している(でも帰依はしていない)という、極めて自由で平和的な信仰形態を持っているということ
異論とかはたくさんありそうですけれども、日頃から思っていたことなので書いてみました。ともかく、いろんな意味で、日本人の信仰って興味深いです。
なお、以下は興味のある人にだけ見て欲しい完全な余談ですが、神さまと仏さまの仲が良すぎる件についての資料です。教科書で習ったような神仏分離以降のねじ曲げられた知識しか持ち合わせていない人にとっては、以下の参照先は衝撃的なものかもしれません。まあ、僕の感覚では「これこそ日本の信仰」という感じなわけなんですけれども。
- 伏見稲荷と東寺の関係
- 春日大社と興福寺の関係
- 丹生神社と高野山金剛峯寺の関係
- 日吉大社と比叡山延暦寺の関係
- 休ヶ岡八幡宮と薬師寺の関係
- 金比羅宮と薬師如来十二神将の関係
- 宇佐八幡宮と東大寺の関係
- 八坂神社と牛頭天王と祇園精舎の関係
- 愛宕神社と勝軍地蔵の関係
- 三宝荒神と東大寺の関係
案外、日本人の宗教観っていいもんですよね。そう思いませんか? どの神さまもどの仏さまも、上記を見倣ってみんな仲良くすればいいのに、と思わずにはいられません。でもここまでグダグダなのは、日本人にしかできない、ある意味での日本人の美徳なんだろうなあ。