嘲笑を受けるリスクと、自分をさらけ出す勇気

僕は過去に二冊の著書を書き、数多くの雑誌原稿を書き、数多くの講演の場に登壇し、今年の初めには小説も発表し、今もこうしてブログを書き、その傍らでなかなか進まない三冊目の著書の準備に追われています。当然ですが、先述のような形で何かしらの意見を発表した場合、賞賛を浴びることもあれば嘲笑を受けることもあります。厳しい批判の対象にされることだって少なくありません。

正直に言って、嘲笑されたり批判されたりするのは、僕にとってはあまり気分のいいものではありません。むしろそれは非常に苦痛なことで、精神的に衰弱しているタイミングでそうした嘲笑や批判を受けた場合、立ち直るのに数日を要することだってあります(調子のいいときなら華麗にスルーできるんですけどね)し、プレッシャーに負けて何も手につかなくなることだって珍しくありません(今もわりとそれに近い状態です)。

そんな中にあって、僕の書くものを読んで「抑制の効いていて好感が持てる」と評価してくれる人が時々います。これはこれで嬉しいことですし、確かに、僕が書く文章は抑制の効いたものが多いと自分でも思います。でもそれは、控え目な性格や溢れる知性がそうさせるのではなく、嘲笑や批判を恐れているがために、自分の内面をさらけ出すことをせず「抑制の効いた文章」というオブラートに包んで文章を書いているというだけのことなのです。

さらに僕は、嘲笑や批判を恐れているだけでなく、自分の内面を素直にさらけ出すことに対して羞恥心も抱いています。自分の未熟さや至らなさを開示することに対して、どうにもならないほど抵抗があるのです。この点について問題に思ったことはあまりなかったのですが、今年の初めに小説を書いたときに、この羞恥心というものをどうにかクリアしなければいけない、と強く感じました。

僕はわりと恥知らずで厚顔なほうだとは思いますし、ブログではそれなりに言いたいことを言いたいように書いているつもりです。それでもやはり、小説という表現手法を模索した際には、自分が抱えている内面の葛藤や鬱屈した感情と向き合わざるを得ず、それはそれは苦しい作業になりました。勇気も必要でした。幸いなことに、そうして書き上げた小説で賞をいただけたので、苦しみが報われた感はあります。

さて、ここに三つの選択肢があります。

  1. 嘲笑や批判や産みの苦しみを避けるために、何も表現しない
  2. そこに苦痛や困難があったとしても、生きた証として表現し続ける
  3. 自分の内面を吐露することはせず、その一方で他人に対しては斜め上からの目線で嘲笑し批判する

今の僕は、上記の「2」を選択しています。もしかしたら今後、どこかで挫折して、一時的に「1」を選択する時期があるかもしれません。しかし自分が「3」を選ぶことだけは嫌です。やはり僕は、自分で何かを表現していきたい。できることなら、嘲笑や批判を乗り越える強い精神と勇気が欲しい。

幸いにも、今の僕には表現の場が数多く用意されています。しかしそれらは、少なくとも僕にとっては、自分の偉さや有能さをアピールする場ではなく、むしろ、自分の至らなさや、無能さや、矮小さを、等身大のまま表現し、批判や嘲笑に晒されるための場であるようにも感じます。でもそれらをうまく利用できるだけの勇気を持って、羞恥心や自尊心をできる限り脱ぎ捨てて、もっともっと成長したい。

表現の場がある、というただそれだけの幸福に感謝です。凡庸かそれ以下しかない才能に悲観する前に、ボチボチやっていきたいものです。