共通了解と個性

僕はいつのころからか、いわゆる話題の本やベストセラーの類をタイムリーに読むことがなくなってしまっていました。というのは、先日書店に立ち寄ってみたところ、まあ書店の風景としては通常のものですが、新刊書や話題の本、ベストセラーといった本たちが目立つところにたくさん平積みになっていて、それらを眺めているだけで「ああなるほど、今はこういうものが読まれているのか」と了解することができたわけで、これが久しぶりの体験だったのです。

昔は僕にとってもこうした場で情報収集することは当然のことだったのですが、最近では本はすべてAmazonで購入しており、しかもAmazonでは「本のおすすめ」のコーナーと検索を多用しているため、話題の本やベストセラーとはいつのまにか縁遠くなってしまっていたのです。

バカの壁そんな中で、話題の本やベストセラーの類の本というのは、「バカの壁」(養老 孟司 著)にあった「共通了解」の一つなのかなあ、などと思いながら、この「かつての話題の本」を思い出したりしました。この種の本をすっかり読まなくなってしまったことで、いわゆる常識っぽい教養がなくなってきたような気がする、と思ったわけです。

もちろん、僕のAmazonの利用法は、書店では入手しにくくなってしまった過去の本や、もともとマイナーな本などに出会いやすく、自分が知ろうとしていることに関する本を探す手法としては最適なものと確信しているのですが、それとは別に、書店に足を運ぶようなこともこれからはしていきたいなあ、などと考えたわけです。

で、その「バカの壁」ですが、この中にあった「『個性を伸ばせ』という欺瞞」という項がものすごく印象的だったので、これについて少し書いてみたいと思います。この項で著者は、普遍性を持った知識や常識のようなものを「共通了解」と呼び、人間の脳はこの共通了解を広げるべく発達してきた、といいます。

つまり人間の脳は「より多くの人と分かりあえる」ように発達してきた、というのです。言語も、科学も、マスメディアも、「より多くの人と分かりあえる」ように人間の脳が発達してきた結果である、と。そして、その人間の脳の発達の経緯と、昨今の「個性」や「創造性」を重視する風潮は矛盾している、と疑問を投げかけます。

そして著者は「共通了解」を無視して「個性」を発揮するのは迷惑そのものであることを、精神病患者の例などを引きながら力説します。つまり、現代社会においては、存分に個性を発揮するようなことは無理な話であり、学校でも会社でも「共通了解」に沿った行動を暗黙のうちに求められます。にもかかわらず、意味不明の「個性」もまた求められる、という矛盾があり、今の若い人たちは可哀想だ、というわけです。

また著者は、個性というものは意識するしないにかかわらず肉体に存在しており、例えば他人の皮膚を移植しようとしてもくっつかない、というくらいそれぞれ個性的であるといいます。

著者が疑問を投げかけている「個性偏重」の風潮というのは、主に教育の現場での風潮に対して投げかけられているようで、確かに僕も、学校や社員教育の場では、個性的で創造的な振る舞いをするようなことはあまりよろしくないと思います。または著者の言うように、混み合った銭湯の中で個性的に振る舞うようなことも甚だ迷惑でしょう。

しかし、実際のビジネスの場では「個性」がことのほか重要であることもまた事実だと僕は思うのです。とすると、求められる「個性」のあり方というのはどういうものなのでしょうか。

養老氏のいうように「共通了解事項」が重要であることに疑問の余地はありませんから、おそらく、ビジネスの現場で求められる個性には、その前段階としてきちんと「共通了解事項」を了解していることが前提となるのでしょう。その上で、「その人にしかできないこと」といった特殊な能力とでも言うべき「個性」が備わっていれば最高です。

さらに、その「その人にしかできないこと」というのは、経済的に価値のあるものである必要があります。簡単にいうと、ビジネスの現場で価値を持つ個性とは、市場価値があり、代替がききにくい能力を持っている、ということなのではないでしょうか。

僕が今しがた述べた個性、「市場価値があり、代替がききにくい能力」というのは、若いうちは「実務技術」が中心である思います。しかしだんだんと経験を積むうちに、求められる能力の中心は「社交」へとシフトしていきます。つまり、社内外との関係構築や情報交換といった社交の場で、代替のききにくい能力を発揮できるかどうか、ということが問われてくるわけです。

さて、ここでもう一度、養老氏の「共通了解」に戻ります。やはり人付き合いの場では、共通了解、言いかえれば「常識」に乏しい人というのは、それだけで魅力を半減させてしまいます。日本語のリテラシーであったり、時事問題などの話題であったり、もっと根本的なところでは「心の機微を読み取れるか」といったところで、相手と「共通了解」を積み上げていくための能力というのは、確かにとても重要なものであるように思えます。こういった基本的な能力なしに「個性」ばかりが前面に出ても、それは社会的には適合しにくいでしょう。

こんなふうに考えてきて、我が身を振り返ってみると、何と僕は「個性的」(もちろん悪い意味で)であることでしょう! もっと常識やコミュニケーション能力を鍛えて、共通了解といいう基礎を作り、そこに立脚した形で個性を発揮できるようにならないと、僕のこの先は危ういような気がしてきます。とりあえずは、たまには書店にも足を運び、ベストセラーの棚でも眺める習慣も身につけていこうとあらためて思いました。たまには「ベストセラー」や「話題の本」も読んでみるものですね。