景況悪化についての僕なりの雑感

ちょっと前まで、日本経済はいざなぎ景気を超える戦後最大の景気拡大局面だとされていました。そして、今は100年に一度の危機なんだそうです。好況とされた時期はどこの国の話かと疑問でしたが、不況ならば実感できます。ニュースも解雇だの強盗だの倒産だのというような内容のものが増えて、いかにもそれらしい空気が充満してきます。

雇用問題に目を向けると、正規雇用が減って非正規雇用の比率が増えるというのは、バブル崩壊から20年近くにわたって一貫して続く傾向です。つまり今の製造業の派遣切りは緊急対応に過ぎず、もっと時間があれば、企業は非正規労働者よりも正社員を多く解雇したに違いありません。雇用不安は社会全体の長期的な問題であって、派遣切りはそのほんの一角に過ぎないはずなんです。

ところがテレビを見ていると、政治家のなかにも労働者のなかにも、働ける人のすべてに行き渡るだけの仕事があるのが正常だと考えている人がいるようです。これには驚愕せざるを得ません。この効率化の進んだ社会で、全員のぶんの仕事なんてあるわけないと思って生きてきた僕と、テレビに出てくる人とでは、見ている世界がずいぶん違うようです。さらに驚いたことには、今日と同じ仕事が明日もあるのが正常だと思っている人まで存在するようです。彼らは農耕と狩猟と物々交換の時代でも夢見ているんでしょうか。

僕が社会人として生きてきたすべての期間で、働きたい人の数よりも就職口のほうがずっと少ない状況が続いていました。僕自身もまた、解雇されたことも5回や6回ではなく、食うに困って、労働条件無視で雇ってくれるところに飛びつくようなことを繰り返した時期もあります。一度でも落ち始めると、余程の幸運がなければ浮上できないのが現実なのです。最後には雇用されることそのものを諦めて、僕は自営業者になりました。わりと安定した今も、贅沢を言わなければ就職先はあるというような発言に触れるたびに、強い苛立ちを感じます。

雇用不安は、また別の問題も引き起こします。僕たちの世代は第二次ベビーブーム世代であり、この世代には第三次ベビーブームを作り出すことが期待されていました。しかし氷河期世代ともロスジェネ世代とも呼ばれる僕たちの世代は、職業難と低所得と将来不安を背景に、出生数を回復させることなく中年になってしまいました。もはやこの世代の生殖能力に期待することはできません。日本の人口構造の少子高齢化は歯止めがかからない状況です。

少子高齢化と人口減少については、地方の限界集落が問題視されていますが、極言すれば、日本中がその限界集落に近づいていっているというのが現状の姿でしょう。加えて言えば、先進国のなかで人口を維持できるだけの合計特殊出生率(2.08)を保っている国はただの一国も存在しません。すべての先進国で少子高齢化が進んでいるのであり、つまりは先進国のすべてが限界集落のようになろうとしているのです。もはや長期的には内需も外需もありません。王様はすっ裸なのです。

そんな中、日本の人口は数年前についに転換点を超え、世界に先駆けて減少に転じました。人口は去年2008年も引き続き減少だそうです。人口が増え続けることを前提として作られていた様々なシステムは、もう終わりなのでしょう。拠出金を負担する人が増え続けることを前提としている年金制度も、納税者や納税額が増え続けることを前提とした国家財政も、需要も供給も増え続けることを前提とした経済システムも、みんなハシゴが外れたのだと思います。

なかでも、年金制度に対する不安は重大です。僕の場合であれば、何もかもが予測通りにうまくいったと考えた場合ですら、もらえる年金(国民年金)の月額は、現在の物価水準でおよそ6万円に過ぎません。実際はこの数字ですら厳しいでしょう。こうした将来不安がある限り、いくら利下げして預貯金のメリットを下げても、人々の貯蓄志向は高まる一方であり、人々のお金は消費には回りません。

貯蓄性向が高まるとはいっても、実際に貯蓄ができるのならまだいいほうで、食うや食わずの人も多いことでしょう。今や就労者の1/3以上は非正規労働者であり、企業の倒産も相次いでいるからです。厚い社会保障(というか年金)のもとで老後を楽観し、余剰を消費にあてることが可能だった時代もあったようですが、それはもはや教科書のなかの昔話に過ぎません。

また、バブル崩壊からの20年ちかくに及ぶ(事実上の)不況は、消費者のマインドをそれ以前のものとすっかり変えてしまいました。高度成長期やバブル期を第一線で過ごした世代には、過剰に消費することを世間映えのする良いことだと考える人も多いようです。しかし、高度成長もバブルも知らない世代(僕もその一人です)の多くは、過剰な消費は単なる無駄だと考えています。

真冬に暖房を効かせて薄着で過ごしたり、高カロリーの料理やデザートを食べる一方でダイエットに励んだり、まだ使える耐久消費財を廃棄して買い換えたり、隣人よりも多く消費することで優越感に浸ったり、35年先までの安定収入を皮算用して借金をしたり、またはそうした様々な行いを豊かさだと思ったりするような価値観は、今やあまり賢いものとは考えられていません。そして、無駄遣いをしない賢い消費者たちはさらに消費を冷やすんだと思います。

需要の低迷は価格低下によって調整される、というのが従来は常識だったようです。しかしその働きも今後は限定的になるでしょう。安いというただそれだけの理由で、必要でないものを新規に買ったり、まだ使えるもの(自動車や白物家電など)を買い換えたり、すでに持っているものを買い増したりする需要が喚起されるというような考え方は、楽観的すぎてこれからの時代にはそぐいません。難しく考えるまでもなく、消費者は要らないものはいくら安くても買わないからです。

イノベーションによる需要喚起にも、そう大きく期待することはできません。高度成長期にみられたような生活を激変させる技術革新と、それがもたらす爆発的な需要喚起(三種の神器や新三種の神器のような)の連続も、今は昔です。地上デジタル放送への移行といった半強制的な需要喚起ですら、思わしい効果を上げられないというのが現状なのです。ケータイは急速に普及しましたが、それで生活が豊かになったかというと疑問です。みんなが豊かになるようなイノベーションなど、今後は起きればラッキーくらいに考えておけばよいのだと思います。

新たなバブルはどうでしょうか。行き場を失った資金がどこかにあり、利下げなどが続く限り、その資金が投機に流れ、実体と乖離した需給の高まり(つまりバブル)を起こすということは、今後も分野を変えて何度でも発生するんだろうと思います。しかし、バブル景気が続く期間は短くなる一方です。今後起きるであろうバブルにも、経済成長を力強く後押しするような長期的な持続性は期待できず、実感としてはバブルで損をする人ばかりが増え続けていくのではないかと僕は思います。

そうこうしている間にも着々と、労働人口が減って需給は縮小し、高齢者比率が高まって社会保障負担は拡大する、という悪循環は世界的な規模で進み、金融危機や政治不安や天災や戦災や疫病がそれに拍車をかけるという状況が続くでしょう。これらは特定の誰のせいでもないので、特定の誰かが責任を取って治まるものではなく、もちろんどこかの国を悪の中枢と決めて攻め込んだとしても解決できません。

日本の場合はさらに、政界と財界の両方が、逃げ切り確実な余命いくばくもない老人たちに牛耳られていますから、リーダーに何かを期待することはできません。もちろん、彼らは死ぬまで既得権益を手放さないでしょう。日本は総理大臣が4人も続けて世襲議員に占拠されているような国です。この状況を全治三年くらいで何とかするなどというのは、キリストの再臨と弥勒菩薩の下生が同時に起きたとしても難しいんじゃないかと僕は思います。

政府が、やれ財政出動だの景気刺激策だのと、アホになって金を使っているのも絶望的です。ただでさえ深刻な財政赤字で返済の目処はついていないのに、さらに借金を積み重ねるとは、どこの破綻国家のことかと思いますが、これは我が日本国の話です。ちょっと前までは、僕が生きてるうちは国家破綻は先送りされるんじゃないかと楽観していましたが、事ここに及んで見方を変える必要が出てきたように思います。

ただ僕は個人的には、この状況をいくらか歓迎しているような部分もあります。

というのも、僕だけかもしれませんが、景況の落ち込みにはある種の安心を感じるからです。1990年代に親しんだ空気が戻ってきたというか、上方に乖離していた経済がやっと実体に近いところまで降りてきたというか、要するに通常の状態が戻ってきたように感じられるのです。これは僕が独立を決めた1990年代末の気分に似ていて、おとなしくしていても悪くなる一方なら、ちょっと何かやってみてもいいよね、というような気分にもなれます。

この気分の正体というのは、きっと大きな諦めのようなもの(悪い意味ではなく)なんじゃないかな、と自分では思っています。先行きの絶望感のおかげで、自分の将来に対して無駄に大きな期待をかける圧力みたいなものから解放されている、というような。だからこそ気が楽になって、ダメで元々というか、開き直り的というか、とにかく、重しが取れたような気分になれるのかもしれません。

幸いにも僕は、守らなければならないものや、失いたくないものはほとんど何も持っていませんし、借金もありません。事業も数年前にはミニマムサイズの低コスト運営に切り替え済みで、時代の趨勢もどうやら味方してくれているようです。こうした立場をうまく活かして、ちょっと夢を追いかけてみようかと思う新年です。