林和利教授「狂言における因幡堂の位相」全文

因幡堂とは、京都市下京区因幡堂町(松原通烏丸東入)にある平等寺のことである。その因幡堂が狂言にしばしば登場する。曲名そのものが「因幡堂」と名付けられた狂言をはじめとして、「鬼瓦」「仏師」「六地蔵」「金津(金津地蔵)」などの諸曲がこの寺を舞台に用いている。実在する固有の寺院がこれほど狂言に用いられている例はほかにない。その理由は何なのか。狂言との関係はどうなのか。そのような疑問を明らかにすべく、因幡堂の位相を多角的に探ってみたい。

全文掲載によせて

「因幡堂」「鬼瓦」「仏師」「六地蔵」「金津(金津地蔵)」。これらはよく知られた狂言の演目ですが、これらの演目の共通した舞台である「因幡堂」とは、京都市下京区因幡堂町(松原通烏丸東入)に今も実在する「平等寺」という寺院です。実在する固有の寺院がこれほど狂言に用いられている例は他にないのだそうです。

この因幡堂(平等寺)と狂言の浅からぬ関係について、名古屋女子大学の林和利教授が研究した結果を著した「狂言における因幡堂の位相」という論文があります。発表以来、多くの狂言ファンや歴史ファンなどに読まれ、因幡堂と狂言の関係について多くの示唆を与えてきた論文です。このたび縁あって林教授の許可を得ることができましたので、ここにその全文を転載させていただきます。

狂言における因幡堂の位相

林教授はかつて野村万作氏に師事するなど、能・狂言を中心とする日本の古典演劇に通じており、この論文もたいへん興味深い内容となっています。では、僕の能書きはここまでとして、本文をお楽しみください。

1. はじめに

因幡堂とは、京都市下京区因幡堂町(松原通烏丸東入)にある平等寺のことである(【図1】参照)。本尊は重要文化財の薬師如来で、信濃善光寺の阿弥陀如来、嵯峨清涼寺の釈迦如来とともに日本三如来に数えられている。この薬師如来は、因幡の国司であった橘行平が同国の海中から引き上げて祀ったものであることから、俗に因幡堂または因幡薬師と称されてきた。

その因幡堂が狂言にしばしば登場する。曲名そのものが「因幡堂」と名付けられた狂言をはじめとして、「鬼瓦」「仏師」「六地蔵」「金津(金津地蔵)」などの諸曲がこの寺を舞台に用いている。実在する固有の寺院がこれほど狂言に用いられている例はほかにない。その理由は何なのか。狂言との関係はどうなのか。そのような疑問を明らかにすべく、因幡堂の位相を多角的に探ってみたい。

江戸中期の因幡堂境内

【図1】江戸中期の因幡堂境内(安永9年刊『都名所図会』、名古屋女子大学図書館蔵)

2. 因幡堂を舞台にした狂言

まず、因幡堂を舞台にして作られている狂言の内容・作柄等を確認しておきたい。

何と言っても、この寺院の名称をそのまま曲名に用いた「因幡堂」なる狂言が存在するということは、本稿のテーマにとって重要な意味を持つ。現行の本狂言において、実在する固有の寺院名を単独で曲名に用いた例は他にないからである。あえて言えば、「八尾」という狂言名が八尾地蔵の省略形と考えられる(注1)ので、それを安置する大阪府八尾市の常光寺のことをさしているということになろうか。しかし、通常の認識としては、この曲名から固有の寺院が連想されることは少ないであろう。そのうえ「八尾」は、「因幡堂」のようにその境内を舞台としたものではなく、八尾地蔵そのものが登場するわけでもなく、手紙の差出人としてせりふに出てくるだけなので、扱いの比重がまるでちがうと言わねばならない。

このほか番外曲や廃曲を入れても、寺院名を単独で用いた例は見当たらず、「清水座頭」(清水寺)、「鞍馬参り」(鞍馬寺)、「竹生島参り」(竹生島弁財天)など、他の言葉と合成して名付けられた曲名がいくつかある程度である。また、寺院に限定せず神社にまで枠を広げても、「西宮参り」(西宮神社)、「湊川参り」(湊川神社)などがあるだけで、単独で用いた例は見いだしがたい(注2)。しかも、これらはさほどポピュラーな曲でもない。因幡堂だけが特別な存在なのである。狂言と因幡堂との間に何か強いつながりがあるのではないかという予測が、まずは成り立つであろう。

さて、狂言「因幡堂」は、大蔵流・和泉流・鷺流の各流にあり、大酒飲みの妻と離婚して、新しい妻を娶ろうとする男の話である。実家に帰った妻に離縁状を出し、自分は因幡堂の薬師如来に妻乞いをする。これを知った妻は腹を立てて因幡堂へ行き、通夜をしている夫に、あたかも仏による夢のお告げのごとく「西門に立った女を妻にせよ」と言い置いて、頭から衣をかぶった姿で立つ。男は仏のお告げと信じて連れ帰り、祝言の盃事ののち被きを取って仰天するという内容で、各流大同小異である。

この曲は、大蔵流最古の『虎明本』、和泉流最古の『天理本』をはじめとして、両流各種台本に収録されており、近世初期以前に成立して廃絶されることなく現在まで上演されてきたことがわかる。ただし、鷺流の場合は最古の『保教本』に収録されていず、幕末の『賢通本』まで待たねばならない。その他、『狂言記(外五十番)』にも収録されている。

一方、天正年間の奥書を有する『天正狂言本』には入っていず、それ以前の上演記録も見いだせないので、室町時代の成立かどうかの確認はできない。しかし、狂言の場合、上演はされているのに曲名の記録がないことが中世においてはむしろ普通であるし、そもそも狂言の上演そのものが記録上無視されることも多かったので、記録がないからと言って、室町時代から存在した可能性がまったくないとは言えない。むしろ複数の流儀において近世初期の台本に収録されているのだから、室町時代成立の可能性を含んで考えておくべきであろう。

また、「鬼瓦」も各流にある狂言で、『虎明本』『天理本』『保教本』すべてに収録されており、『狂言記(外五十番)』にも入っている。長期在京して訴訟がかなった遠国の者が帰郷するにあたり、因幡堂へお礼参りに行くと、御堂の鬼瓦が国元の妻によく似ているので、なつかしがって泣き出すという内容。ただし、鷺流だけは因幡堂ではなくて、六角堂へ参詣する。

それ以外の「仏師」「六地蔵」「金津」は類型的な作品群で、都へ仏像を買い求めに来た田舎者に、人間が扮した偽仏を売り付けるという共通のパターンで、できあがった仏を渡す場所が因幡堂の境内という設定になっている。これらの曲もそれぞれ各流最古の前掲台本に収録されている。ただし、やはり鷺流では場所が異なり、「仏師」は誓願寺で、「六地蔵」は六角堂である。また、「金津」にいたっ.ては田舎者を待たせておくだけで、とくに寺院の境内ではない。これは和泉流も同様なので、「金津」において因幡堂を用いるのは大蔵流のみなのである。したがって、因幡堂と最も深い関係にあるのは、作品の上で見る限り、大蔵流であるということになる。

また、鷺流の狂言で因幡堂を舞台としているのは、その名を曲名に用いた「因幡堂」のみであるという点も見逃すわけにいかない。それもこの曲はかなりおくれて同流のレパートリーに入ったと判断できるわけだから、鷺流と因幡堂の結び付きは薄いと見なければなるまい。元来はほとんど関係がなかったと言ってもよさそうである。

さらには、四種ある狂言記類(正・続・拾遺・外)では、因幡堂を素材にした狂言のすべてが『外五十番』に収録されているというのも気になる。池田広司『古狂言台本の発達に関しての書誌的研究』(風間書房・昭42)によれば、諸本比較検討の結果、『外五十番』は「筋立てやせりふもかなり自由であった固定前の大蔵流や大蔵の弟子であった三宅家の町風の台本に拠ったものではないか」という。やはり、ここでも大蔵流とのつながりが浮上してくるのである。

どうやら、因幡堂を舞台にした狂言は、本来大蔵流系ではなかったかという仮定が成立しそうである。おそらく、大蔵流は他流よりも多く因幡堂の境内を使用したのであって、その狂言師たちによって作られた作品群ではないかと推測される。

ちなみに、大蔵ハ右衛門虎光の記した『狂言不審紙』は、「因幡堂」と「鬼瓦」の作者を「二代之内」としている。二代之内とは、大蔵流八世金春四郎次郎と九世宇治弥太郎政信のことを指すらしい(注3)。もちろん、付会されがちなのが作者付の常であり、この説をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないものの、大蔵流内での成立を示唆する消極的な材料にはなりえようか。

3. 因幡堂の縁起

現在の因幡堂すなわち平等寺は、境内の広さや伽藍の規模、あるいは知名度から言っても、さほど目立った存在ではない。なぜこの寺だけが狂言に頻出するのか、不思議なほどである。中世には有名であったというが、いったいどの程度であったのだろうか。まず、その縁起と歴史のあらましを確認しておく必要があろう(注4)。しかし、平等寺は過去幾度も火災にあっており、寺院所蔵の古文書の類はほとんど失われている。

さしあたり縁起については、絵巻の『因幡堂縁起』(重要文化財、東京国立博物館蔵、【図2】参照)をはじめとして『一遍聖絵』『碧山日録』『擁州府志」などの諸書に記述があるが、『山州名蹟志』(正徳元年刊)の記事が比較的詳細でよくまとまっているようなので、これを引用しておく(注5

行平邸に薬師像飛来の図(部分)

【図2】『因幡堂縁起』(重要文化財、東京国立博物館蔵)より、行平邸に薬師像飛来の図(部分)(『新修日本絵巻物全集』第30巻、角川書店・昭56)

因幡堂本尊伝。往昔、天竺祇園精舎の一院、療病院という所あり、釈尊の造立なり。後世彼院荒んとするに及んで、東方に飛去り竜宮に至る。彼土の有情を度す。
然して至在数百歳の後、吾朝村上天皇の御宇、天徳三年春三月、大納言橘好古孫、少将行平の勅に依り、因幡国一宮に参詣し、疾を感ず。
或夜夢に、老僧来て告て云く、治病には当州賀留浦に、一浮木の波に漂泊あり。是を採るべし。是則有情を為利、仏国より来れりと、云畢て覚たり。
翌日家臣を遣して、網を下すことを議す。老翁来り告云、海底より光放つこと、已に四十年来なり。故に諸魚恐れて住まず。悟て以て漁人業を失ひ、居宅を去て荒村となる。海光此比又盛なりと。
遂に網を下すに、光明赫奕として、薬師仏現じたまへり。行平卿是を拝して、病苦癒たり。
頓て其地に就き、堂を造って霊像を安る。其他殊に豆葉の繁るを以て、豆葉寺と号す。後に座光寺と改む。行平感信の余り、末子を僧と為して令を守る。
其後又本尊、飛して洛陽の行平の宅に人来す。時は一条院の長保五年四月七日なり。郷即其座の無きを以て、碁盤に安る。然ふして後、好古の持仏堂に移す。
其夜叉飛で行平に帰り、告て日く、此地は、是東方浄瑠璃世界の西門に中れり。此所に在って苦の衆生を度すべしと。是故に、宅地を寺と為す。今の地境是なり。
長保五年、本尊来現するに、其夜異人出て洛中を巡って、五条行平卿の家に、西天竺より来る薬師仏あり。往きて結縁すべしと触たり。
又因州より飛去るに、後光台座は彼寺に存す。仍て座光院と号す。今尚あり。

夢のお告げによって橘行平が因幡国賀留浦(賀留津とする説もある)の海中から引き上げた薬師仏が、洛中の行平邸に飛来し、これを祀ったものであるという。時に長保五年(一〇〇三)のことである。そして、台座を残して飛んで来たから、碁盤を代用にしてその上に安置したと説いている。

この縁起伝説を絵にしたものへの言及が、室町時代の日記類『満済准后日記』『実隆公記』『御湯殿上日記』などに見られるので、この伝説が当時いかに一般に流布していたかが知られる。

さらには、江戸時代にも同縁起譚が広く流布していたらしいことを、『軽口露がはなし』に収められた笑話「新仏一体の望」が示している(注6)。

にはか道心起し、新仏一体のぞみて、仏師所へ行、大座後光のせんさく申析ふし、「それに付、京の因幡堂の本尊薬師如来は碁盤に乗らせ給ふが、あれはめづらしき大座にて侍る。何と謂れの有事か」といへば、「成程いはれもあり、尤成事なり」といふ。「其子細は」「あのいなば堂は四町にかゝつた」といふ。

当時、因幡堂は広大な境内を有し、周囲四つの町にまたがっていたという。一方、囲碁用語にシチョウ(征)という言葉があり(注7)、「四町」と「征」をかけて、だから因幡堂の薬師如来は碁盤に乗っているのだとシャレで説明した笑い話である。

この笑話は薬師如来が飛来したことには直接触れていないけれど、それを前提にした笑いであるはず。聴衆がその縁起譚を常識として知っていたからこそ、この笑いのネタが受けたのであろう。少なくとも、因幡薬師に台座がなく、碁盤に乗った姿であることはよく知られていたことがわかる。すなわちこれは、因幡堂の大衆的認知を示すものと言えよう。

また、因幡堂がいかに広大な敷地を持っていたかということも、この話は明示している。しかも京都の中心地とも言えるような立地条件である。当時の京都町衆にとっていかに馴染み深い寺院であったかが推察できよう。

このように因幡堂は、その大衆性と庶民性ゆえに狂言に取り上げられたと考えることができる。しかし、それなら同様に町堂として町衆に親しまれていたはずの六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)が、鷺流の一部例外を除けば、ほとんど出て来ないのはなぜなのか。やはり、因幡堂には直接狂言に係わる何らかの要因があると見なければなるまい。ことに、大蔵流の狂言師たちと同寺との関係は、上演場所の提供など、なにがしかの深い関係があったのではあるまいか。

4. 因幡堂の歴史

建立後中世以前の因幡堂の変遷をあらまし眺めておく。

のちに広大な敷地に発展した因幡堂も、平安時代は小規模の寺院であったことが、『中右記』永長二年(承応元年、一九〇七)一月二十一日の記事によってわかる(注8)。

戌時許蓬屋之北隣一許町小屋等焼亡、(中略)烏丸東有小霊験所、世云因幡堂、已焼了、仏像雖奉取出、堂令已 燼、哀哉、隈 灯

類焼によって焼失した因幡堂のことを「小霊験所」と表現しているのである。先に見たように、当初は橘行平の私邸に堂を設けて祀ったものであるから、もともとさはどの規模ではなかったであろうが、それから約九十年ほど経ち、邸の主人も亡くなって、さらに縮小していたのであろう。

なお、これ以後も因幡堂はたびたび火災に遭っており、そのために所蔵文献のほとんどが失われ、過去の記録に不明の部分が多いのであるが、中世以前において確認できる火災の記録は次のとおりである(注9)。

康和五年(1103)十一月十六日
『本朝世紀』
高承三年(1108)二月八日
『中右記』
康治二年(1143)十月十三日
『百錬抄』
仁平三年(1153)四月十五日
『百錬抄』
平治元年(1159)十一月二十六日
『百錬抄』
安元三年(1177)四月二十八日
『山桃記』(治承三年二月二十八日条)
寛元四年(1264)六月六日
『百錬抄』
建長元年(1249)三月二十三日
『百錬抄』
元中八年(1391)十一月十日
『南方記伝』
永享六年(1434)二月十一日
『看聞御記』

さらにこののち、近世にも火災があったらしく、現在の建物は明治十九年(1886)の再建であるという。このような数々の火災のゆえに、中世における因幡堂の実態が不詳なのであるが、狂言と深い関係があったと思われるだけに、遺憾というほかない。

さて、一旦衰微した因幡堂が、そののちどのような経緯で発展を遂げたのか不明であるが、『都名所図会』(安永九年刊)等の記述によれば、承安元年(1171)に高倉院から平等寺の勅額を賜ったというのだから、その当時すでに、それが可能な程度の存在であったはずだし、そのことがさらなる規模拡大の契機になったのであろう。

また、鎌倉時代の弘安七年(1284)頃、時宗の開祖である一遍がこの寺に住んでいたことが、『一遍上人語録』の次の表現によって伺われる(注10)。

(一遍が)因幡堂にうつらせたまふころ、土御門の入道前内大臣、念仏結縁の為におはしませし後に‥‥

浄土宗に学んで時宗を開いた一遍が居住するくらいだから、この当時の因幡堂の宗旨が、少なくとも真言宗に限定したものでなかったことは明らかだろう。

また次に見るように、応永年間(一三九四〜一四二八)には天台宗に属しており、宗旨が一定でなかったことを推測せしめる。さらには、同じ天台宗でも寺門派総本山園城寺(三井寺)の末寺から、同派大本山聖護院の末寺に鞍替えしていることも、『康富記』応永二十五年(一四一八)七月二十六日の記
事(注11)によって判明する。

五条東洞院因幡堂者、園城寺末寺也、而因幡堂者為聖護院之末寺之由申之、叛三井寺云々、掲自園城寺押寄于因幡堂、可打毀僧坊等之由風聞之間、此間侍所[一色兵部井小舎人雑色等]、勢井近辺之町人等大勢、昼夜警固因幡堂云々、

([ ]内は原文割り書き)

鞍替えを知った園城寺の大衆が因幡堂を襲撃するといううわさが聞こえたので、近辺の町衆がこの寺を昼夜警護したという。すでに京都町衆の心の拠り所として重要な存在であったことを伺わせるエビソードである。庶民の強い支持を得た寺院であったらしい。

また、その一方で将軍家とも深い関係のあったことが、『満済准后日記』応永三十一年(一四二四)十月九日の記事(注12)によって判明する。すなわち次のとおりである。

自今日御所様因幡堂御参龍。白今夕御方様御祈不動護摩始行。道場束向六間。如御修法時。壇所笠懸馬場黒木御座所也。其処ヲ少々室礼令参仕了。護摩開白如常。念誦伴僧等今度略之。承仕一人常善。哲明練相共道場等料理。開白仏供一隅分也。男左右各二坏。入帳後方一方許引之。阿佃棚立之。毎夜仏供退紅二人長櫃ニテ昇之。駈仕一人相副。大略如修法時也。開自重衣。宥済律師。親秀上座等供奉。各単衣体。御加持耕二礼盤ノ前ニ畳一枚敷之。神供淳基僧都。壇行事同勤仕。壇所奉行快円法橋。胤盛上座。室礼用脚千余疋自納所下行。道場方同前。承仕方百五十五疋。駈仕方七十余疋云々。

相当の規模で祈祷が行われたことが判るが、いずれにせよ将軍家がたびたび参籠しているということは、その他の貴族の尊宗も集めていたことが想像される。後述のように、天皇家による参詣の記録もあるほどである。したがって、貴賤を問わず幅広く親しまれた寺院であったわけであり、このような中世の状況を考えれば、この寺院が狂言の舞台として繰り返し取り上げられても不思議ではないと言えそうである。

それにしても、現在は真言宗の因幡堂が、室町中期に天台宗の寺院であったというのは驚きである。同じ密教とは言え、むしろ近親的存在であるがゆえに両者相入れぬのが、宗教の世界の常なる状況である。いついかなる事情で転宗したのか興味深いところであるが、現住職の大釜諦順氏によれば、「資料が焼失してしまっているので詳細は不明であるものの、近世初期には真言宗の住職になっていた」という。安永九年(一七八〇)刊の『都名所図会』には、「寺務は天台聖護院御門主、寺僧は真言宗なり」とある。江戸中期に至っても、なお、両宗相乗りの形で天台宗とのつながりがあったことがわかる。

ともあれ、狂言の生成とおぼしき時期に天台宗であったという事実は見逃すわけにいかない。なぜなら、大蔵流の伝承で多くの狂言の作者として伝えられているのは玄恵法印であるが、彼はほかならぬ天台宗の僧侶だからである。もちろん玄恵作者説をそのまま鵜呑みにできないことは言をまたず、ほとんど信用できない仮託と言ってよいかもしれない。しかし、火の無いところに煙は立たずである。仮託なら仮託でそれが生ずる背景があったはずであり、少なくとも玄恵を作者とするにおいて、狂言と結び付け得る要素があったものと考えられる。そのIつが天台宗という宗旨であった可能性はあるまいか。

たとえば、因幡堂の境内において狂言の演じられることが多く、ここにおいて新しい狂言の生まれるような環境があったとする。場合によっては、因幡堂の僧侶たちが狂言のストーリーを考案するということだってあり得たかもしれない。つまり、大胆な推測だが、因幡堂が大蔵流における狂言生成の場であった可能性を考えるのである。とすれば、天台宗の寺院もしくは僧侶と狂言の生成とを結ぶ関連図式が成立するわけで、それが常識のごとく定着していたなら、玄恵を狂言の作者に仮託するにおいて、少なくともあまり違和感はないという道理になろう。

しかし、これを裏付ける具体的な資料は見当たらず、あくまで仮説の域を出るものではない。因幡堂の古文書類が焼失していなかったならばあるいは、と惜しまれる。

5. 因幡堂における芸能上演の記録

因幡堂における芸能上演はどの程度であったのだろうか。それに関する記録を中世に限って抽出してみよう(注13)。

まず、貞治二年(一三六三)に、琵琶法師の明石覚一が勧進平家を演じた記録が、『師守記』の同年間正月三日の条に見える。

今日家君密々聴聞五条高倉薬師堂覚一検校平給、

「高倉薬師堂」というのは「因幡堂」のことである。

また、能勢朝次『能楽源流考』が世阿弥の演能の可能性を示唆して紹介している『吉田家日次記』応永九年(一四〇二)の記事がある。

今日於因幡堂猿楽也。北山殿御出。

これが猿楽に関しては最も早い記録である。

世阿弥の時代から因幡堂で猿楽が上演されていた。しかもそれが義満臨席の場であり、世阿弥自身の上演の可能性が濃厚というのは、この寺院と能・狂言の関係を示す上で重要であろう。

次に、『実隆公記』廷徳元年(一四八九)十月六日の条には、勧進猿楽の記事が見える。

今日猿楽[於因幡堂下辺白去三日勧進至今日云々、大夫六郎男也]可構桟敷可来之由連輝軒雖報給、故障之由申了、

([ ]内は原文割り書き)

また、『親長卿記』も同じ日にこの催しを次のように記している。

見物勧進猿楽、六郎大夫手猿楽也、

さらに、『山科家礼記』もこれを記録している。

勧進猿楽今日はて候也、

要するに、廷徳元年の十月三日から同六日までの四日間、因幡堂の境内において勧進猿楽が催され、そのときの大夫が手猿楽の六郎(またはその息子)であったというのである。六郎とは当時、この前後の文献に頻出する手猿楽者中西六郎のことに相違ない。彼は幼名を千世寿といい、少年のころから宮中に出入りして女房たちにかわいがられて評判のよい手猿楽者であったことが、『実隆公記』や『御湯殿上日記』『後法興院記』などの記述によってわかる。

いずれにせよ、この勧進猿楽が複数の文献に記録されているということは、よほど世間で注目された大きな催しだったにちがいない。手猿楽者とは言え、宮中ご用達として演技に定評のある中西六郎一座の数日に及ぶ演能ということで、評判を呼んだのであろう。その興行地が因幡堂だったのである。何のための勧進かは不明だが、時期的に考えて、応仁の乱(一四六七)後の荒廃した因幡堂の修築・再建を目的としたものではなかったかと察せられる。

狂言については何も記述がないが、能とともに当然併演されたはずである。このときのみならず、当時の猿楽狂言の上演場所として、京都町衆がこぞって集まるこの寺が選ばれたであろうことは、想像に難くない。

因幡堂(平等寺)における芸能の記録としてもう一つ、やはり『実隆公記』の永正二年(一五〇五)正月二十一日の条に、次のような記事が見られる。

今日可詣平等寺当年御重厄之間、毎月七人可参詣也、(中略)今日各参詣
神妙、可動一羞之由勅定、御樽、御上器物等被下之、男各賞翫、及小音曲、有興、

天皇の厄年には勅使がこの寺に代参したのであるが、この年はまさにそれに当たり、それも重厄だったので、毎月七人が参詣することになったという。この日は正月なのでその最初の参詣が行われたわけだが、酒や食物などの供え物とともに、小音曲すなわち軽い芸能が奉納されている。能・狂言ではなく平曲か延年の類いだったのだろうか。いずれにせよ、天皇の厄年のたびごとに、この寺において何らかの芸能が演じられたものと見られる。

かくして、記録の数こそ少ないが、因幡堂が芸能上演の場であったことが実証できる。町堂として京都町衆に親しまれた因幡堂は、まさに貴賤群集の場所として栄えたわけだが、そのような寺で、何も見世物が行われなかったと考える方が無理である。むしろ、種々雑多な大衆芸能が繰り広げられたと見るべきであり、その中に猿楽、ことに狂言が含まれていたと判断するのは、さほど不自然なことではあるまい。このような環境のゆえに、大蔵流狂言の上演場所としても、因幡堂が大きくクローズアップされた時期があるにちがいない。そのころに成立したのが、「因幡堂」はじめ、この寺を素材とした一連の狂言だったのであろう。

なお、芸能記録ではないが、前掲『軽口露がはなし』のほか、『浮世物語』(寛文初年刊)や『松の葉』(三味線歌謡集、元禄十六年刊)など文学作品のジャンルにおいても因幡堂への言及があり、当時の一般庶民への知名度のほどが推し量れる。芸能上演の場であることが、庶民レベルの知名度をアップさせる結果にもなったのであろう。

6. むすび

以上、狂言における因幡堂の位相を種々の角度から考えてみたわけだが、この寺院を舞台にした狂言が生まれた環境は、ある程度明らかになったかと思う。

要するに、因幡堂が、その縁起譚や薬師信仰とともに京都町衆に最も親しまれた町中の寺院であり、まさに門前市をなすかのごときにぎわいの中で、おそらくは狂言の上演も頻繁に行われたであろう。それが因幡堂素材の狂言を生み出す最大の要因だったのであろう。場合によっては、寺僧が狂言の制作に携わった可能性さえ考えられる。また、寺院側が意図するしないにかかわらず、結果としてこの寺の知名度を上げる宣伝の効果ももたらしたであろう。

ただし、因幡堂に深く係わった形跡のある大蔵流と、ほとんど関わりを持たなかったかに見える鷺流と、流儀による事情の際のあることも判明した。どうやら因幡堂素材の狂言は大蔵流の中で形成されたと見てよさそうである。

  1. 『狂言記拾遺』には「ハ尾地蔵」の曲名で収録されている。
  2. 曲目名の確認は、池田広司著『古狂言台本の発達に関しての書誌的研究』(風間書房・昭32)所収の「狂言曲目所在一覧」による。
  3. 小林貴著『狂言史研究』(わんや書店・昭49)の記述による。
  4. 本橋執筆の時点では平等寺の縁記を記したパンフレット類は作成されていなかったが、その後、山嵜泰正氏の手によって『薬師如来縁記』が作成されている。
  5. 引用は、日本古典文学大系『江戸笑話集』(岩波書店・昭41)巻末補注に翻刻されたものによる。
  6. 引用は、前掲『江戸笑話集』による。
  7. 『大辞林』(三省堂・昭63)によれば、囲碁の「征(シチョウ)」は、「当たりの連続で斜めに追いかけられると、行く手に味方の石がない限り、盤端で取られる石の形」であるという。
  8. 引用は、『増補史料大成 中右記二』(臨川書店・昭40)による。
  9. 日本歴史地名大系『京都市の地名』(平凡杜・昭54)の「因幡薬師」の項による。
  10. 引用は、日本古典文学大系『仮名法語集』(岩波書店・昭39)による。
  11. 引用は、『増補史料大成 康富記こ(臨川書店・昭40)による。
  12. 引用は、『統群書類従 補遺一』(統群書類従完成会・昭9)による。
  13. 記録の抽出にあたっては、小高恭『中世芸能史年表』(名著出版・昭62)を参照した。引用も同書による。

あとがき

この小論は、平成九年三月に勤務先の紀要(名古屋女子大学紀要・人文社会編・43号)に発表し、その後、学位論文に収録して、拙著『能・狂言の生成と展開に関する研究』(世界思想社・平成十五年)にも収めたものである。

近年、平等寺への参詣客が増え、狂言との関連について関心を持つ人も少なからずあると聞き、拙考が役に立つならと思って冊子化を試みた。

調査の際にお世話になった平等寺へ奉納し、恩に報るつもりで作成した。参話者各位の参考に供することができるなら望外の喜びである。

平成十八年十一月十一日

著者紹介

林 和利(はやし かずとし)
1952年兵庫県篠山市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。現在、名古屋女子大学文学部・大学院教授。文学博士。
主著
「能・狂言の生成と展開に関する研究」(世界思想社)
「日本文化論序説」(青山杜)ほか
連絡先
〒468-8507 名古屋市天白区高宮町1302
名古屋女子大学文学部 林研究室
電話: 052-801-1133(文学部)
メール: [email protected](総合案内)
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