個性とか自分らしさとか

ここしばらく、僕の周囲でも「個性」や「自分らしさ」のようなことを口にする人が多くなってきたので、それについて。「自分らしさ」とは何か、「自分らしく生きる」とはどういうことか、といったことを考え、その答えを内面世界に求めるのは、昔から思春期を過ごす若い人たちの間では至上命題だったとは思いますが、いい大人がそれらの議論をするシーンを見ると、正直なところ僕は辟易してしまいます。なぜ辟易してしまうのかといえば、それは「個性」や「自分らしさ」や「自分らしい生き方」のようなものは、僕はいわば社会的な役割のようなものであると考えていて、自分の内面から生まれてくるものでもなければ、自己や自己の内面を見つめ直すことでそれらを強化できるものでもないと考えているためです。少なくとも僕にとっては、それは「はじめからそこにある」か、または「勝手に向こうからやってくる」ものであって、「自己の内面を見つめることで発見できる」ようなものではないのです。

ナンバーワンよりオンリーワンというような表現は、その部分だけ取り上げれば間違いではありません。人間はみんなそれぞれに個性を持っている、独特な人なのだということはその通りです。しかしどうも好きになれないのです。

それは確信の問題です。そもそも個性というのはあるに決まっている。そこに自信があればいちいち口に出すこともない。わざわざオンリーワンだ何だと声高にいうというのはその確信が弱いからこそだと思えるのです。

他人に認めて欲しい。だからわざわざ主張するのです。それは確信のなさの裏返しでしょう。自己を確立するというけれども、確立するまでもなく自己は初めからあるのです。もしもそれをわざわざ確立したいという人がいるとすれば、確立したいのは実は自己ではなくて、社会的地位なのではないでしょうか。

超バカの壁」(養老孟司 著)

養老先生のいう「個性」や「自己」というのは、生体としての独立性のようなもので、例えば「あなたの皮膚を私に移植しようとしても簡単にはくっつかない。それはあなたと私は違っていて、それぞれ個性的だからだ」というような身も蓋もない話なのですが、内面的な個性というのは、僕もこういうものではないかと思います。それは、わざわざ確立するまでもなく、生まれたときからあるものです。そして、その内面的な個性をわざわざ確立しようとするのは、まあ、かなり西洋的な、個人主義的な匂いを感じます。

では、社会的な「個性」や「自己」についてはどうでしょうか。僕たちはかなり頻繁に、社会と自己との葛藤のようなものを起こし、悩みます。そこで、少し極端な例を考えてみましょう。究極的な意味で人生を苦に思い、「今の人生から逃れたい」と思った人が持っている選択肢は、死んでしまうか、またはホームレスになるなりドヤ街に紛れるなりして逃亡・蒸発するか、といったところで、「既存の他者との関係性を断ち切る」ことで実現されるように見えます。死んでしまうのも、逃亡・蒸発して別人として第二の人生を歩むのも、既存の関係から逃れるという意味で同質であり、つまり人生とは、他者との関係性そのものなのではないかと思えるのです。つまり社会性です。

つまり、僕が思うに、「個性」や「自己」というのは社会の中で規定されるもので、自分の内面から湧いてくるものというよりは、後付の、外部からもたらされるものであるように思うのです。そして、それはおそらく多くの人が直感的に知っていて、だからこそ、人は自己の内面を見つめようとするときには、一人になろうとし、極端な場合には山に籠もったり出家したりするのでしょう。確かに、一人の場では自分が中心で、そこには自己があるのみです。しかし、山を下り、俗世に戻れば、そこにいる自分は世界の中心ではなく、社会に規定される存在です。

人は、他者との関係があってはじめて人であれるのだと、僕は思います。他者との関係を全て断ち切ったら、その人は社会的には存在しないのと同じで、社会に何ら影響を与えません。ウェブ上のどこからもリンクされていないドキュメントは、ウェブサーチで検索することも、別の経路で到達することもできず、したがって評価もできず、ウェブ全体に何ら影響を与えません。そのドキュメントは存在しないのと同じなのです。社会における人も、このドキュメントと同様、リンクがあってはじめて存在し、社会に影響を及ぼす、といったもので、自己の内面よりもむしろ、「自己と他の関係性」が「個性」や「自己」や「自分らしさ」を規定しているように思います。

自己の存在を、それ単独でユニークな存在とみなそうとするのは、何か欧米的な自信過剰の匂いがします。「我思う、ゆえに我あり」というデカルトのコギト命題については、僕はそれに反論するだけの哲学的根拠を持っていませんが、それでも、我(考えるもの)に中心を置くような(または置くべきというような)個人主義的な考えには違和感を持ちます。東洋人は、社会全体を中心性のない大きなシステムと捉え、その中でそれぞれの物や自然や生物は影響し合ってシステムを支えている、というように考えます。または、個である僕たちはそのシステムがあるからこそ存在できている、と考えたりします。僕はこちらのほうがずっとしっくりきます。

自分は素晴らしい、自分が世界の中心だ、というような考えは、まだ未熟で社会のルールも関係性を読み解く方法も知らなかった幼児期には、誰にでも当然あったものです。僕だって幼児期には、世界には僕を中心に、両親がいて、友人がいて、という風に世界を捉えていました。しかし、幼稚園や学校などで社会生活を送るうちに、世界の中心は僕ではなく、僕は社会の末端に位置している、ということを理解するようになります。これが普通でしょう。しかし、家父長制度も天皇制も形だけになり、「個性尊重」などの風潮の中で育った僕たちは、おそらく半世紀も前の人たちからすると、「自分は世界の中心ではない」というただそれだけのことを学ぶために、恐ろしく時間がかかってしまっているように思います。そして今の僕もなお、ともすれば幼児のような考えに引き戻りがちになります。

僕にしたところで、大衆からの非難が集中することによってベストセラーとなった「下流社会 新たな階層集団の出現」(三浦展 著)は正直なところ耳が痛く、ともすれば反発や非難する側にまわりがちで、この意味では十分に僕は「下流的」な「自分らしさ派」に分類できると思うのです。ただ、幼稚な自己中心性からいくらか脱却できているからこそ、社会性のようなものを常に検討しているからこそ、下流的でありながらもある程度生活を維持していけているのかもしれません。

しかし、それよりも、団塊世代の「上」が若いときから発し続けてきた「自分が好きなことをすればいいのさ」というメッセージが、過去30年間、次第に社会的風潮として広がっていき、同時に、社会の豊かさが増してくる中で、その風潮が後続世代の「下」にまで浸透したと考えた方が自然であろう。

(中略)

そうした価値観の浸透が、好きなことだけしたいとか、嫌な仕事はしたくないという若者を「下」においてより増加させ、結果、低所得の若者の増加を助長したと考えることができそうである。

つまり、象徴的にいえば、村上龍の「13歳のハローワーク」を読んで、そうだ、自分が本当に好きなことを見つけて、それを仕事にしようと真に受けて自分探しをはじめた若者は、結果としていつまでもフリーターを続けて30歳になっても低所得に甘んじ、低所得に固定化されていく危険性が高いかも知れないということである。

下流社会 新たな階層集団の出現

結局のところ、僕もまた「自己」や「個性」などを追求しているわけですが、それはいわば社会の中での「居場所探し」のようなもので、それは前提となる社会との関係性があり、それを育て、変化させ、その結果として、いわば関係性の中で与えられるものだと考えています。だから、僕は様々なことを試し、様々な関係性の中に身を置き、常に変化することによって、「自己」や「個性」や「居場所」を探していくのです。

したがって、僕の自己はとても流動的で無常なものです。というのも、僕を取り巻く社会や人の関係性は流動的で変化に富んでおり、その関係性に規定される僕の自己もまた、無常なものになるのです。もしかしたら、僕にとっての「自分探し」は、「自己の無常さ」や「居場所の流動性」を突き詰めようとする道なのかも知れません。僕は自己を、内面ではなく外部との関係に求めているのです。これはこれで、僕がハッピーに生きるための一つの考え方だと思っています。

僕はこのように自己を捉えているので、僕の内面を見つめたところで何も出てきませんし、内面世界の追求のようなものには価値を見いだしにくい、というか「それは思春期にやりました」「だけど大した内面的自己はありませんでした」というようなものです。そしてこのようなことは、僕が思うに凡庸な個性しか持たない多くの人に共通のことで、探さなければ「自分らしさ」がみつからない人は、少なくとも自分の内面をいくら探してみてもそれは見つからないよ、と僕は思ってしまい、冒頭で述べたような、「個性」や「自分らしさ」の話を聞くだけで何かしらむず痒いような嫌悪感を感じてしまうのです。

すみませんオチはありません。