ぼくは勉強ができない

山田詠美の代表作は1985年の「ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨」と1987年の「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」あたりで、これらの文庫版の登場が僕の高校卒業と前後していたので、これらはその頃に読んだ記憶があります。内容はほとんど覚えていませんが、読中・読後に言いしれぬ感銘を受けたことは覚えています。ただ、その後の彼女の作品となるとさっぱりで、先の2冊以降は何も読んでいなかったと思います。もしかしたら「放課後の音符(キイノート)」を読んだかもしれない(タイトルに見覚えがある)のですが、誰かに勧められただけで、実際には読んでいないように思います。簡単にいうと、もう印象が薄れてしまっていた作家、というか、一時期(とはいっても10年くらいに及ぶのですが)は無差別にありとあらゆる小説を読み漁っていた僕が、ここ7〜8年はほとんど小説を読むことがなくなっていて、山田詠美というより、小説自体への興味が引いていたのかもしれません。

それが、多分どこかでおすすめされていて、勢いでAmazonのカートに入れていたものだと思うのですが、今回久々に彼女の小説を手に取りました。手に取った小説のタイトルは「ぼくは勉強ができない」。高校生の男の子、時田秀美くんを主人公とする連作の短編集です。初出は1991年から1992年の「新潮」誌で、タイムリーに読んでいたとしてもおかしくない時期ではありますが、その当時は読んでいませんでした。しかし今読んでみると、勉強はできないけれど女の子にはもてる高校生の男の子という視点を借りて、僕たち大人の、特に社会人が、直感的には感じているにもかかわらず、口にはできずにいることを、はっきりと、高校生らしいストレートな物言いで、ずばりと言い当てていて、溜飲の下る思いを抱くようなシーンがいくつもあって、まあ寝酒を煽りながらではありますが、楽しく(いや興奮して)読むことができました。例えば作品の冒頭に近い以下の箇所。

しかしね。ぼくは思うのだ。どんなに成績が良くて、りっぱなことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする。女にもてないという事実の前には、どんなごたいそうな台詞も色あせるように思うのだ。変な顔をしたりっぱな人物に、でも、きみは女にもてないじゃないか、と呟くのは痛快なことに違いない。

ぼくは、桜井先生の影響で、色々な哲学の本やら小説やらを読むようになったが、そういう時、必ず著者の顔写真を捜し出してきて、それとてらし合わせて文章を読む。いい顔をしていない奴の書くものは、どうも信用がならないのだ。へっ、こーんな難しいこと言っちゃって、でも、おまえ女にもてないだろ。一体、何度、そう呟いたことか。しかし、いい顔をした人物の書く文章はたいてい面白い。その反対は必ずしも成り立たないのが残念なところである。

ぼくは勉強ができない」山田詠美

ここでは人物の魅力やその発言の信憑性について、「女にもてるか、もてないか」ということを軸に、直感的な判断が描かれています。もっといえば、「いい顔をしているか、いないか」という即物的かつ主観的な判断が描かれています。これはら直感的、即物的、主観的な判断ですから、それを文字通りに受け止めずに、何かの喩え話と考えて深読みするのもまあいいのですが、しかしこの小説の良さは、それらの、場合によっては有識者が眉をひそめるような主観や直感を、何かの喩え話ではなく、まさに文字通りの意味で基準としているところにあります。

僕がこの本を読んで思ったのは、「女にもてるか」「いい顔をしているか」という基準は、それを満たそうとする側にとっても、それを判断しようとする側にとっても、まさに動物的な能力の基礎たるものであって、その基準を満たすための能力や資質やパフォーマンス、あるいはそれを見分けるための能力や資質やパフォーマンスが欠けていた場合、人間として以前に動物として成り立たないほど重要なことであるということです。つまり、ここで働く直感やこそが「生きる」ということにとって最も重要なのであって、その他の、例えば難しいことを言うとか、成績がいいとか、(社会人の僕たちでいえば金を余計に持っているとか)いうようなことは、あくまでも副次的な意味しかないわけです。その意味では「女にもてない」「いい顔をしていない」ような人の言うことにいちいち耳をかす必要などないのかもしれません。

さらには、ここで「女にもてない」と、男性の側に限定した話になっているのは、僕が思うに世の女性たちにとっては「男にもてない」ということが致命的なことであることはすでに周知で、まずはそこをクリアしないことには、どんなに難しいことを言おうが、成績が良かろうが、「生きる」ことに何ら寄与しないということが常識になっているのではないか、ということにも思い当たります。そう思って周囲の魅力的な女性たちを見てみると、まず男にもてることを(そこにどれだけの努力が隠されているのかを悟られることなく、見え透いた媚びを売ることもなく)クリアした上で、プラスアルファとして何か別の能力を備えているようにも見えてきます。つまり、彼女たちは動物としての「魅力」というものを理解していて、それを得るための努力もしていて、その上でさらに人間としての魅力もまた身につけている、というわけです。地に足が着いていることの明確さに驚きます。

現代社会にあっては、「女にもてる」「いい顔をしている」ことだけを追求することは不毛だとは思いますが、それでもしかし、「女にもてる」「いい顔をしている」ことを無視するわけにはいかないなあ、と改めて思いました。現実の僕がどうであれ、そのための努力ができているかというと、そこにはやはり疑問が残ります。僕も少しくらいは努力しないといけなそうです。ともあれ、すっかり大人になってしまった男性には(もちろん女性にも)強くおすすめします。「ぼくは勉強ができない」軽く読めて面白く、しかもけっこうグサッとくる良書です。

# 現実世界で「女にもてる」ということは、もしかしたら、Web上で「リンクを受ける」ということと同じ意味を持つのかもしれません。いずれも生存のための最低限の条件であって、難しいことが書いてあるとか、優等生的であるとか、運営者に金があるとかいう事実があったとしても、そのサイトが誰からもリンクされていなかったとしたら、そこに価値があるとは思えないのです。「でも、きみのサイトには被リンクがないじゃないか」という言葉は、僕たちにとって最も刺さる言葉なのかもしれません。