人を「嫌う」ということ

それほど少なくない数の人が僕を嫌っていて、それは仕方のないことだ、というのは、今までもの経験上知っていました。僕が嫌われることがあるという事実や、それを完全に避けることはできない、ということも感覚的に知っていました。しかし、どうしても理解しにくく、認めにくいのは、「僕が他者を嫌うことがある」ということです。

僕たちは小さな頃から「みんな仲良く」「人を傷つけないように」といったことを是として教育されてきましたから、僕は自分の中にわき起こってくる「あの人が嫌いだ」という感情は、それが存在すること自体認められないことのように感じていたのです。

誰かを「嫌いだ」と思うたび、そう思ってしまう自分の度量の小ささを確認することになり、同時に、「嫌いだ」という感情を持つことは、その感情を持ってしまう非道徳的な自分自身への嫌悪感を発生させます。「人を嫌う」という自分自身から生まれる感情と折り合いをつけることは、僕にとってはそう簡単なことではなかったのです。

例えば、「直裁的な物言いをする」という特性が、ある人の場合には好ましいことである一方で、別のある人の場合にはそれが忌むべきことであったりします。同じように、「洗練された物腰」という特性が、ある人の場合には好ましく思える一方で、別のある人の場合にはそれが嫌味たっぷりの耐え難い侮辱のように見えたりもします。

こういった理不尽なことが自分の中で起きてしまい、「みんな仲良く」とか「人を傷つけないように」といったことを実践することができない自分自身を再確認し、結果、自己嫌悪へと突き進んでいくのです。さらに都合の悪いことに、僕はその「直裁的な物言い」や「洗練された物腰」によって僕に嫌悪感を抱かせているその人に対して、嫌っているというその事実を表明することはありません。自分を誤魔化し、社交を継続してしまうのです。その事実もまた、僕を自己嫌悪へと走らせます。

僕は人付き合いは嫌いな方ではないと思いますし、ある程度の社交性も備えているとは思いますが、それでも、どうにも人付き合いが煩わしく思えることもあります。例を挙げると、携帯電話。古い友人たちは知っているとおりですが、僕は今の仕事を始めるまで携帯電話を持たずに過ごしていました。いつも連絡が取れる状態というのが煩わしく感じたためです。

そして現在も、僕と連絡を取ることの多い人たちは知っていることですが、僕は滅多に電話に出ません。僕の携帯電話は常にサイレントモードになっていて、電話が着信していてもほとんどの場合気付かないのです。これも、電話が鳴ることに対して僕がある種の恐怖感を抱いている証左だと言えるでしょう。こうなってくると、ある種の神経症のようなもので、我がことながら病的な感じすらします。

ひとを“嫌う”ということしかし、今日、まさにさっき読了した「ひとを“嫌う”ということ」(中島義道 著)は、僕の心をすっかり軽くしてくれました。この本は、哲学者である著者が、そのタイトルの通り、「人を嫌う」ということについて研究した本です。この本の中で著者は、「嫌う」ということは「好く」ということと同様に自然なものだと言います。

著者は、人を好くということと人を嫌うということは表裏一体であり、「人を好きになれ、しかし決して嫌ってはいけない」などというのは矛盾している、と喝破します。人を好くことも嫌うことも両方とも自然なことで、それらを両方とも受け入れることが真に人間的なことだというのです。

結局のところ、人は人を好きになるのと同様に、嫌いにもなるもので、それは本来自然なことであるはずなのに、「人を嫌うのは悪いことだ」ということが擦り込まれているがために、人は苦悩してしまうのだというわけです。誰もがキリストやガンジーのような人格者ではありませんし、もし皆がキリストやガンジーのようだったら、世界はすっかりつまらないものになってしまう、とまで言います。つまり「嫌う」ということもまた、人間の不思議な魅力の一つだ、というのです。はっきり言ってこの考え方は、僕にとっては世界がひっくり返るほどの衝撃でした。ここまで人間を根本から肯定する考え方には、今まで僕は出会ったことがなかったのです。

漠然とした直感で、僕は「肯定しなければ生きていけない」ということは感じていました。例えば、キリスト教的な原罪や、仏教的な諦観のようなものは、いわば自己否定であり、救いを天国や来世に求めているという点で、生きるための考え方というよりは死ぬための考え方であるように思えるのです。これらを信じることは、生きることを否定し死ぬことを肯定することであるように思え、現実に生きている僕にとってはそれがどんなに魅力的に見えても、そこに帰依してしまうわけにはいかないと感じていました。そして僕は、「何もかもを肯定した」哲人としての空海に憧れ、今に至っています。こうした僕の「肯定」への直感にいくらかの裏付けをくれたこの「ひとを“嫌う”ということ」は、今後の僕の人生をかなり豊かなものにしてくれることでしょう。久々によいものを読んだ気がしました。