僕は「自由であることを何よりも大切にしたい」というようなことをわりと頻繁に口にしますし、このブログでも何度か書いてきているわけですが、すべての人にその意味が正確に伝わっているわけではないということを最近知りました。僕がいう自由とは、誰かから与えられるものでもなく、自然にそこにあるものでもありません。僕は、自由とは何かの権利などではなく、あくまでも能力の一つであって、それは自助努力によって開発したり維持したりすべきものだと考えているのです。なんだか、自由というと、下のようなものを思い浮かべる人が少なからずいるようです。
- 憲法が保障する権利としての自由
- 神から与えられた贈り物としての自由
- すべての人が平等に有して当然の自由
しかしこれらは、僕とっては自由などではまったくなく、厳しい言い方をすれば、実体のともなわない幻想のようなものにすぎません。
なぜなら、自由は行使できなければ意味を持たず、自由を行使するためには、資力や、時間や、体力や、精神力や、知能などといった能力が必要になるからです。そして、その能力に個人差がある限り、自由にも個人差があるのです。自由は、国家や神から保障されたり与えられたりするものではなく、ましてやすべての人にとって平等なものでもありません。自由とは権利ではなく能力の一つであり、それは個人の努力や才能や環境からもたらされるものなのであって、与えられるものではなく開発し、維持するものだと僕は考えているのです。
例えば、日本国憲法第3章「国民の権利及び義務」第22条には何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する
とあります。べつに僕が六本木ヒルズレジデンスに居住しても公共の福祉に反するとは思えませんが、それにもかかわらず、僕はそこに住む自由は持っていません。同様に、僕はメジャーリーグのスタープレーヤーになる自由も、ベルリン・フィルの主席指揮者になる自由も持っていません。しかしそれは当然のことで、僕は僕のレベルでの居住移転の自由や職業選択の自由を有しているにすぎず、前出の人々のようなレベルでの自由を有していないからです。
レジデンスに住んだり、メジャーリーガーになったり、といった自由を行使できる人々というのは、その自由を行使するだけの能力(つまり資力や、時間や、体力や、精神力や、知能など)を身につけているのであって、そもそも僕と比べるようなものではありません。自由のレベルが違うのです。彼らは、その自由を身につけるために、またはその自由を維持するために、僕などには想像すらつかないような努力をし、その上に才能や運や環境にも恵まれた人々なのです。努力せず、したがって潜在的に持っている才能に気付くことすらない僕が、彼らのような自由を手にすることは現実的にはあり得ないのです。
同様に、第14条には何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない
とありますが、僕がメジャーリーグのスタープレーヤーになる自由を持ち合わせていないのは、法律の定めによる手続きによってその自由が奪われたのではなく、自分の能力や才能やその開発が不十分だったためにその自由を失ったのであって、その責任の大半は自分自身にあります。少なくとも、常識的に考えて、僕がメジャーリーガーになれないことを国家や神のせいにするのはおかしいはずです。
実際問題、憲法が保証しているから自由、人は神のもとに平等に自由、などということはあり得ず、自由とは、個人が様々な能力を開発し、維持し、行使した結果として得られるものなのであって、誰かから与えられるような種類のものではないのです。あくまでも、自分でつかみ取り、行使するものです。その上で、僕が自由にこだわる理由とは、それが僕自身の自己実現の欲求に根ざしたものだからです。
この上ない安らぎを得たいのであれば、音楽家は曲を作り、画家は絵を描き、詩人は詩を詠む必要がある。人間は自分がそうありうる状態を目指さずにはいられないのだ。こうした欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができよう・・・・・。それは自己充足への欲求、すなわち自己の可能性を顕在化させようという欲求、なりうる自己になろうとする欲求である。
「完全なる経営」アブラハム・H.マズロー
上記の引用のうち、それは自己充足への欲求、すなわち自己の可能性を顕在化させようという欲求、なりうる自己になろうとする欲求である
という部分は特に重要です。自己の可能性を顕在化させようとする、なりうる自己になろうとする、ということは、つまり、自分の可能性の限界までの自由を得ることであると僕は考えているのです。そしてそのことは、その自由を行使できるだけの能力を開発し、維持することを意味します。より自由であることを求めるということは、まさに限りない成長を目指すものであって、そうそう易しいことではありません。しかし、小さなものであっても新しい自由を手にすることは素晴らしいことです。
僕が最近手に入れた新しい自由は、「好きなときに旅行に行く自由」です。これは多くの人にとっては小さな自由にすぎないかもしれませんが、休日もなく、まともな睡眠時間もない状態で長い間働いてきた僕にとっては、本当に素晴らしいものです。この自由を得るためには、まとまった可処分時間といくらかの資力が必要になりますが、僕は自分の就労形態を工夫することで、時間と資力を生み出し、その結果として、好きなときに(例えそれが平日であろうと思い立ったらすぐにでも)旅行に行く自由を得たのです。
同じように、今の僕は、好きなときに好きなだけ働く(または働かない)自由も持っていますし、好きなときに好きなだけ勉強する自由も、好きなときに好きなだけブログを書く(または書かない)自由も持っています。もちろん僕は大富豪ではありませんから、そうした自由はいくらかの資力的な制限付きではありますが、しかし、どの自由も以前の僕からは想像もつかないほど恵まれたものです。
こう書くと、何だか僕はひどい怠け者のようですが、別に僕は怠けたくて自由を求めているのではなく、自由の幅をもっと広げ、より多くの選択肢を持ち、より多彩な意志決定のできる人になりたいと考えているだけです。一見するととても自由な世界に見える現代の日本も、「では自分はどれだけの自由を行使できるのか?」という視点で見直してみると、様々な制約に縛り付けられて身動きがとれなくなっている自分に気付きます。僕は自分の能力を高めることで、そうした制約の一つ一つを取り除き、より自由になろうと考えているのです。多様な価値観が認められる現代にあって、僕のような人が少しくらいはいてもいいのかな、などと考えずにはいられません。