As long as I have a want, I have a reason for living. Satisfaction is death.
欲求があるうちは、生きがいを持てる。満足は死だ。Wikiquote: George Bernard Shaw(下手な訳文は筆者による)
僕たちが何らかの欲求を満たすために日々働き、生きている、ということはほとんど確実なことです。着るものや、食べるものや、住む場所や、友人とのつながりや、自分の成長や能力の活用を、僕たちは強く求め、働き、生きています。上で引用したバーナード ショウの言葉は、それを端的に表したものです(僕の下手な訳ではなく英文のほうを見てください)。欲求がひとつでもあれば、その欲求は生きる理由になります。欲求のレベルには、単に生命を維持するためだけの生理的な欲求もあれば、より高次な、成長したい、自分の能力を活用したい、という欲求もありますが、いずれにせよ、どこかの段階で満足してしまえば、それは死んでいるのと同じである、というわけです。
例えば、生命を維持することだけで満足してしまえば、それ以上の成長は望めません。同じように、いくらか自分が成長したと認識した時点で満足してしまえば、やはりそれ以上の成長は望めないでしょう。そうしたことから、満足し、成長を止めてしまうと、人は、働く意味も生きる意味も失い、死んでいるのと同じになる、というようなことを、バーナードショウは言おうとしたのでしょう。
アブラハム H.マズロー博士の欲求段階説によれば、人間の欲求には以下のような段階があり、後へ行くほど高次な欲求であり、前段階の欲求を満たして初めて、次の段階の欲求が生まれるといいます。
- 生理的欲求(生命の維持のために必要な欲求)
- 安全への欲求(安全を確保したり、不確実性を回避する欲求)
- 社会的欲求(集団への所属や友愛の欲求)
- 尊敬への欲求(認められたい、尊敬されたいという欲求)
- 自己実現の欲求(自己の成長や能力の活用への欲求)
現在の日本人のほとんどは、第一段階と第二段階の欲求である「生理的欲求」と「安全への欲求」はほぼ満たされているといってよいでしょう。実際、現在の日本で餓死したり凍死したりする人はわずかです。また第三段階の欲求である「社会的欲求」も、ウェブの登場によって比較的容易に満たされるようになりました。現実社会では社会的欲求を満たしにくいような、例えば特殊な趣味や嗜好を持っているとか、極度に社交が苦手であるといったような人でも(むしろそのような人ほど)、ウェブ上には共感しあえる仲間がおり、様々なコミュニケーションの形があります。そうしたことから、現在の僕たちは第四段階の「尊敬への欲求」か、第五段階の「自己実現の欲求」と立ち向かっていると考えてよいでしょう。
高度成長期やバブル期のメンタリティでマズローの欲求段階説を読み解けば、政治家や大社長になって組織に君臨するなり、大金持ちになって莫大な金融資産を運用するなりして、権力や資産を持ち、いわゆる「成功者」として自分を定義できるようになることが、まさに自己実現であり、人生の最終的な目標のようになるのかもしれません。事実、僕たちの年代(僕は1971年生まれで世に言う「ホリエモン世代」です)やその上の年代の人々を見ていると、欲望を満たすことに対して貪欲で、ポジティブで、そしてプロフェッショナルな人が多くいることがわかります。現在までの社会基盤のほぼすべては、彼らのようなプロフェッショナルたちによって作られてきたと言ってもいいでしょう。政治家しかり、官僚しかり、軍人しかり、資本家しかり、企業戦士しかりです。この意味で、彼らの貪欲さ、成長欲求の強さは賞賛に値します。しかし、現在においては、権力や資産の多寡だけを目標に人生を歩むには、僕たちはあまりにも豊かになりすぎました。
少なくとも僕にとっては、ヒエラルキーの頂点に立つことには大きな意義は見いだせませんし、同様にヒエラルキーの中でで働くことも意義深いとは思えません。また必要以上の資産を持つことにも意義を感じませんし、ましてやそれをひけらかすことなど卑しい行為であるとすら思います。働くことは神聖なことだとは思いますが、金銭のためだけの労働を神聖なものだとは思いませんし、いかにその労働が価値あるものだったとしても、過労死するほど働くことを幸せだとは思いません。報酬をもらうことは大きな喜びですが、それは自分の能力を活かして相手に何らかの満足をもたらした結果としての報酬が喜びなのであって、報酬自体に魅力があるわけではありません。
つまり、権力や資産はすべてに優先するほど魅力的なものではなくなってしまったのです。僕はフリーランスという就労形態を採っていますが、これはワークスタイルの選択というよりはライフスタイルの選択であって、働き方ではなく生き方を重視した結果のものです(現に従業員も社長も経験済みです)。自分にとっての豊かさとは何か、自己実現とは何か、という命題はいつまでもつきまとうものだと思いますが、社会が豊かになり、価値観が多様化した現在にあって、その答えは高度成長期やバブル期と同じものではありえないと僕は考えているのです。つまり僕は、権力者や資産家を目指しているのではなく、単に、僕自身であろうとしているだけなのです。
もう一度マズローを引用します。
この上ない安らぎを得たいのであれば、音楽家は曲を作り、画家は絵を描き、詩人は詩を詠む必要がある。人間は自分がそうありうる状態を目指さずにはいられないのだ。こうした欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができよう・・・・・。それは自己充足への欲求、すなわち自己の可能性を顕在化させようという欲求、なりうる自己になろうとする欲求である。
「完全なる経営」アブラハム・H.マズロー
上記の引用を現代風に補完するならば、ブロガーはブログを書き、オープンソースのハッカーはプログラムを書き、クリエイターは表現する必要がある、といったところでしょうか。そして、それらの行為によって、音楽家は音楽家を目指し、詩人は詩人を目指し、クリエイターはクリエイターを目指す、というわけです。これらの行為は、自分自身が、そうありたいと願う自分自身になるために行われます。
そしてその報酬は、ごくシンプルにユーザーの「利用」という形で現れます。音楽であれば、彼の曲を聴く人々、彼の曲を演奏する人々の存在が、すなわち音楽家である彼への報酬です。ブロガーであれば、彼のブログにトラックバックし、ブックマークし、RSSを購読者する人々の存在が、ハッカーであれば、彼のプログラムのユーザーたちや、フィードバックする人々が、彼の報酬となるでしょう。それは、欲求段階説における第四段階「尊敬への欲求」と第五段階「自己実現の欲求」を満たすものだからです。
そして、彼が、彼が目指す「そうありうる自己の状態」にどれだけ近づいたのかということは、そうした「ユーザーたち」を通して見ることができます。金銭でもなく、権力でもなく、ただ単にユーザーの存在こそが、彼の完成を雄弁に語るのです。そして、二次的な成果として金銭や権力が手にはいることもあるかもしれませんが、あくまでそれらは二次的なものであって、金銭や権力が彼を満たすわけではありません。
そして、僕の場合であれば。僕は、僕が発信するコンテンツのユーザーたち、つまり僕のブログやサイトや本を読んでくれる人たちや、僕の講演を聴きに来てくれる人たちによって存在することができ、そうした人たちが存在すること自体が僕にとっての最大の報酬です。僕は金銭や権力に対してはそう貪欲にはなれませんし、この意味では社会的な成功者にはなりにくいタイプの人間だと思います。しかし、僕には欲がないわけではなく、僕は「住 太陽でありたい」と切に願っていて、そこには大きな欲望が渦巻いているのです。ただその目標は、金銭や権力によって計量できるようなものではないために、その進行状況も客観的には把握できず、時々は疲れてしまったり、強く欲求を持ち続けたりすることが困難だったりしてしまうことが、少々困ったところです。