ハードボイルド小説というスタイルは、日本ではすっかり流行遅れになってしまった感がありますが、これは本場アメリカでも同様なのだそうです。そんな中、ロノ・ウェイウェイオールという変な名前の著者の2003年のデビュー作である「鎮魂歌は歌わない」の邦訳が今月(2008年7月)文春文庫から発売されました。前評判で、この作品が古典的なハードボイルド小説であり、各所で絶賛されたものであるということを知り、僕もそれを手に取ってみました。
ハードボイルド(しかも古典的な)などというそんな古くさいスタイルの小説が最近書かれ、そして絶賛されるというのは一体どういうことなのか、という疑問から手に取った本作ですが、様々なことを考えさせられました。案外とハードボイルドというのは興味深いぞ、という具合です。今日はこれについて少し述べてみたいと思います。
ハードボイルド小説というのは、社会や人間、自分自身、そして未来への深い絶望を抱いた主人公(たいていは中年男性)が、絶望の淵から立ち上がり、自分の信念に基づいて問題に立ち向かう(たいていはたった一人で)、という物語構造を持っています。それは今回読んだ作品も例外ではないのですが、この構造はハードボイルド小説の成立期から全盛期にあたる1930年代から1940年代のアメリカの状況と密接な関係があります。
一説では、ハードボイルドというスタイルは、第一次大戦後の好景気に沸いていた1920年代のアメリカが、1929年10月24日のブラックサースデーに端を発する世界恐慌によって一転し、金融不安と第二次大戦(1941年開戦)への恐怖に包まれたことを背景に完成したと考えられています。社会全体に拡がる不安や恐怖、絶望、閉塞、といった状況が、ハードボイルドを完成させた、ととる説です。
ダシール・ハメットの「血の収穫」は1929年の作、「マルタの鷹」の発売が1930年であり、レイモンド・チャンドラーの長編デビュー作である「大いなる眠り」は1939年、「さらば愛しき女よ」は1940年の作です。これらはいずれも、ブラックサースデーから第二次世界大戦の開戦までの期間に話題を集めた作品群であり、この時期のこれらの作家や作品群によってハードボイルドは成立したというわけです。
今回の「鎮魂歌は歌わない」の発表は2003年ですが、これは2001年のアメリカ同時多発テロの発生から2003年に開戦したイラク戦争の時期に合致しており、直接的にはそうした事件は描かれてはいないものの、政情不安や安全保障問題が横たわる社会の中で生まれ、読まれたものと考えることもできます。
アメリカではそうした考察ができる一方で、日本の事情は少し異なります。日本でハードボイルド小説が全盛期を迎えたのは、戦後の復興期から高度成長期にあたる1950年代から1970年代にかけてだったのです。日本社会は不安や閉塞どころか活気にあふれ、どんどん豊かになり、明るい将来像を描き、総中流化したという右肩上がりの時代に、ハードボイルド小説が大流行したのです。これはアメリカの例と比べると奇妙なことにも思えます。
僕が思うに、戦後の復興期から高度成長期にかけて日本でハードボイルドが流行したのは、資本主義化や総中流化の波の中で、古き良き日本の道徳観(侠気と言ったほうがいいかも)のようなものが失われていくことを憂う気風から生まれた現象なのではないかと思うのです。
日本においては、総中流化に現れているような没個性化していく企業社会的価値観と、旧来の倫理観や侠気といった価値観(いわば金では買えない心のようなもの)の対立構造の中で、ハードボイルドが受け入れられたのではないか、と思えるのです。日本でハードボイルドが流行した時期と、学生運動や労働運動が盛んになった時期が重なっていることも、この考察を裏付けているように思えます。
さて、アメリカにおいてハードボイルド小説が成立した背景(経済危機や政情不安)に話を戻すと、それは高度成長期の日本ではなく、現代の日本にこそ色濃い背景であるように思えます。現代日本はワープアだのロスジェネだの経済格差だのといった諸問題を抱えており、個人が持ちうるチャンスは時間を追うごとに目減りしていく一方で、それに反比例するように時間を追うごとに先行きの不安は増大しています。
こうした現代の日本社会が抱えている不安や絶望は、まさに(古典的な)ハードボイルド小説が復権するにはもってこいの豊かな土壌となりうるように思えます。この時代が持つ閉塞感、絶望感を表現しようとするとき、絶望の淵からたった一人で閉塞感に立ち向かう主人公を描く、というハードボイルドの物語構造は、美しい解の一つに思えるのです。
いま巷では小林多喜二「蟹工船」などのプロレタリア文学が受けているようですが、蟹工船は追い詰められた船員たちが団結して階級闘争する話でした。この労働者が団結して集団を形成するという展開は少々前時代的すぎて、現代の気分を表現しようとする場合には難しいと思われますし、そもそも階級闘争というモチーフ自体が現代にはそぐわないようにも思えます。
その一方で、ハードボイルド小説で描かれるのは個人の反逆であり、イデオロギーとも無縁な、自己を証明するための戦い(悪くいえば自分探し的な戦い)なので、(少なくとも階級闘争よりは)現代の読者にとってはより共感しやすいのではないのかと思えます。こうした意味で、案外とこれからは古典的なハードボイルドがアツいかもしれません。
最後に小ネタをひとつ。プロレタリア文学の代表作である小林多喜二「蟹工船」と、ハードボイルドの成立を高らかに告げたハメット「血の収穫」は、奇しくも共にブラックサースデーのあった1929年に発表されています。舞台も主題も書かれた場所も異なる二つの作品ですが、これらの作品が生まれた社会的な背景を思うと、同時代性の妙を感じずにはいられません。