貪欲な豚と満足した豚

今よりもっといい服を着たい、今よりもっと旨いものを食いたい、今よりもっといい車に乗りたい、今よりもっと出世したい、今よりもっと大きな家に住みたい、今よりもっと金融資産を増やしたい、というような欲望は、いつまでも尽きることなく持ち続けられるものなのでしょうか。欲望を満たすために働き、その結果より大きな欲望を得て、さらにその大きな欲望を満たすためにより一層働く、といった、いわば欲望の拡大再生産のようなものは、何かとてつもなく不毛なことのような気がします。貧富の格差が拡大し、二極化が進んでいく社会の中で、「勝ち組」などと称される人々は、こうした欲望が強く、まさにその欲望自体をモチベーションの源として、貪欲な豚のような人生を送っているように僕には思えます。これは幸せな人生なのでしょうか?

その一方で、「下流的」とか「負け組」などと称される人々は、自分だけの「生きる意味」をみつけ、それぞれが、それぞれの幸せの形に沿って生きているように見えます。僕自身も、ほんの一時期だけにすぎませんが、馬車馬のように働き、それなりの収入とそれなりの名声を得て、より多くのそれらを得ようと自分の身にムチを振るっていました。その頃の僕はまさに「勝ち組を目指す貪欲な豚」だったでしょう。しかし今は、自分の会社の他に外部の二社で兼務していた取締役という役職もそれぞれ退任し、自分の会社さえも僕一人という規模にまで縮小し、必要な分だけ働き、あとは本を読むなり音楽を聴くなり巡礼の旅に出るなり、といった調子で「下流的な人生」を満喫しています。もちろん収入は以前と比較して劇的に減少しましたが、それでも僕は不満は持っていません。僕は「満足した豚」になってしまったのでしょうか。

以前僕は、「欲求とモチベーション」というエントリの中で、以下のような引用をしました。

As long as I have a want, I have a reason for living. Satisfaction is death.
欲求があるうちは、生きがいを持てる。満足は死だ。

Wikiquote: George Bernard Shaw(下手な訳文は筆者による)

欲求がひとつでもあれば、その欲求は生きる理由になる、というわけです。そして、満足してしまえば、生きる理由は失われてしまう、ということでもあります。しかし、欲求も満足も、働く意味も生きる意味も、さまざまな側面があります。今回は、ずいぶん前からネット上で流通している有名な寓話を紹介しながら、これについて考えてみたい思います。その寓話とは以下のようなもので、こんな感じで検索すると、その亜種をたくさん見つけることができます。

メキシコの田舎町にある小さな漁村。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの?」
と尋ねた。すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。

旅行者が、
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。実に惜しいなあ」
と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、一日の残りの時間はどう使っているの?」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「まあ、朝ゆっくりと寝て、少し釣りをやって、妻のマリアとシエスタをとって、そして夕方になると村の広場に行って、アミーゴたちとテキーラを飲んだり、ギターを弾いたりするんですよ。とても忙しくて、充実した生活を送っていますよ、セニョール」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、やがてはロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をり、拡大し続けるグローバルな事業を展開するようになる。いいだろう!」

漁師は尋ねた。
「しかし、セニョール、そこまで何年かかるんですか?」
「まあ、20〜25年でできるよ」
「それからどうするんですか?」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「億万長者ですか。そんなにお金があって、どうなるんですか?」
「そうなったらリタイアして、メキシコの小さな漁村に引っ越して、朝ゆっくり寝て、少し釣りをやって、奥さんとシエスタをとって、そして夕方になると村の広場に行って、アミーゴたちとテキーラを飲んだり、ギターを弾いたりして、充実した生活を送ればいいんだよ。どうだい、すばらしいだろう?」

作者不詳の寓話より

できることなら、僕はこの話のメキシコ人のように今を楽しんで生きたいと思っていますし、実際にそれに近い生き方をしていると思います。このアメリカ人の言うように20〜25年間も待たなくても、今すぐに、幸せな充実した生活を送ることは可能なのです。過労死と隣り合わせの状態で何十年も働いてやっと手に入れる幸せが、考え方を切り替えるだけで今すぐにでも実現可能なことだったとしたら、それほど虚しいことはありません。誰だってみんな、明日にも不慮の事故などで死んでしまうかもしれない可能性を持っています。ならば、今を楽しまず、将来の楽しみのために生きることにどれだけの価値があるのでしょう?

いや、もしかすると、問題はそういう「いつ楽しむのか」というところにはないのかもしれません。何しろ、そもそも僕たちは将来に大きな不安を抱えていて、「将来の楽しみ」のようなものを信じていないからです。「将来?そんなものなければいいのに」というのが今の僕たちの本音でしょう。「生きる意味」は、今の毎日の生活の中に見いださなければ、僕たちは今日を生きる気力さえも失いかねません。僕個人でいえば、将来に対して欲望を抱き続けることなど到底無理で、むしろ、「今を生きる意味が欲しい」といったものなのです。

右肩上がりの時代、それは自分自身の個別の「生きる意味」を深く追い求めなくてもひとまずは幸せにやっていける時代だった。いまから考えれば冗談のように思えることだが、会社員なら自分の飲んでいるウイスキーで人生における現在地がわかってしまうような時代があった。貧乏学生から新入社員の時期はトリスを飲み、ホワイトを経て角瓶に至るころには「俺もいっぱしのサラリーマンになったなあ」との感慨に浸り、それがオールドになればもうかなりの地位で、その勘定も交際費で落とせるかもしれない。リザーブが飲めるようになればもうキャリアの完成も近い。そして充実した会社生活を終え、悠々自適の年金生活の中で、楽しみに取っておいたジョニ黒やらを取り出し、チビチビとやる。何と幸せな人生! 自分の「生きる意味」など自分自身で考えなくても、人生を真面目にやってさえいれば、社会のほうからそれなりに安定し、充実した人生のプランを用意してくれていたのだ。

生きる意味」上田紀行

しかし今は、こうした右肩上がりの神話も崩壊して久しく、時代はすっかり変わってしまいました。社会は人生のプランなど示してはくれません。何十年も奉公した会社から突然解雇を言い渡されたり、絶対安全だと思われていた大企業が倒産するようなことも珍しくはなくなってしまいました。格差社会の中で自分をどのようにポジショニングするのかということが自己責任であるのと同様に、人が「生きる意味」を見つけることもまた、自己責任に帰せられるようになってしまったのです。大人たちは、子供や若い世代にステレオタイプな明るい未来を語ることもできなくなり、子供たちや若者たちは将来に何の希望も持てなくなってしまいました。

「一所懸命に働けば幸せになれる」とか、「老後の安定した生活に備える」とか、そりゃあ一体なんの話ですか?というのが今の僕たちの(いや僕の)本音です。そして僕は、まさに今、下流の負け組の典型的なものとして、好きな本を読み、音楽を聴き、人々と交流し、寺院を巡礼し、こうしてブログを書いています。それだけではなく、そうした生活にそこそこ満足しています。まさに今の僕は、先に引用したメキシコ人漁師のようなもので、その姿は悪く言えば「満足した豚」であり、生産性もモチベーションも低い人間(「下流社会 新たな階層集団の出現」の中で指摘されていたような)になってしまったようです。これでは、やはり世間的にはあまり格好のよいものではありませんし、そうした自分の姿にいくばくかの嫌悪感を抱くことがあることも事実です。しかしそこには、僕による、僕のためだけの「生きる意味」があるようにも思うのです。今の時代、この日本で生きていくこと、そしてそこに何らかの意義を見いだすことは、本当に難しいと感じる今日この頃です。