他人の意見をわかりやすく表現する

昨日の未明にすべての原稿を提出して、監訳の仕事が一段落しました。慣れない仕事だったこともあり、本当に長い道のりでした。かかった時間だけで判断するなら、自著の執筆よりも多くの労力を投入したような状況です。でも、いろいろと勉強になる部分もあり、作業自体はかなり楽んで進めることができました。

今回の仕事で僕は、他人の著作(しかも見つけてきたのは編集者さん)を紹介するためだけに二ヶ月以上もかけたわけですが、これは文章を書くということに関して、かつてない経験を僕にもたらしました。

自分の意見や考察を表現する場合には、何かしらの情熱のようなもの(自己表現の欲求と言ってもいいかも)に後押しされて書いているという一面があります。しかし、他人が書いたものを翻訳するという場合、やるべきことは原著者の意図をわかりやすい日本語表現に落とし込むことだけで、情熱とかそれに類するものはなく、ごくごく冷静な視点をもって作業に臨むことになります。

この表現はわかりやすいものだろうか、どうすればより伝わりやすくなるだろうか、ということだけを考えながら、他人の意見を日本語で表現していくというわけです。これは僕にとって、まったく新しい文章体験でした。翻訳の仕事というのは、単に他言語の文面だけを日本語化するというだけでのことはなく、日本人の読者にとってより理解しやすい体裁に書き換えていく必要があるんですね。

そのため、必要に応じて文の前後を入れ替え(たとえば「結論→理由」という流れが不自然な場合には「理由→結論」に替える)たり、主語や目的語を調整(英語の文章は主語と述語が中心である一方で、日本語ではたいてい目的語を文の中心にした方が自然)したり、寒すぎるアメリカンジョークを割愛したりするなど、かなりの書き換えが必要になりました。

監訳ということで引き受けたこの仕事ですが、実質的には監訳というよりは翻訳。機械翻訳(に毛が生えた程度)の下訳原稿が送られてきて、それをちゃんとした日本語に直す、というのがその仕事の内容なのですが、なにしろ下訳は機械翻訳。まずは原書を原文のまま読み込み、次に原書と付き合わせながら下訳の誤訳部分を修正し、それから日本語として適切な文章にリライトします。

わりと時間があったにもかかわらず、大きく作業が遅れてしまっているのは、原文がすごく平易な英語で書かれていたために、ちょっと作業を軽く見過ぎていたんです。

しかし、原文が平易な英語で書かれているということは、決して翻訳が容易だということを意味しているわけではないんですよね。つまり、原書の良さは「興味深い内容を誰でも理解できる平易な文面で表現してあること」なわけで、その美点を日本語版にも継承しようとした場合、いかにも翻訳といった感じの難解な文章になってしまっていたら、日本語版としてまったく意味がない。むしろ原書読んだほうがよくなっちゃう。

原文が平易なだけに、日本語の文章も平易でわかりやすいものにしたいという気持ちが、やはり強く働きます。原書の良さを僕がスポイルしてしまうわけにはいかないですもんね。翻訳の仕事って、もちろん内容に対する理解が最も重要なわけですけど、語学のスキルとして重要なのは、英語力よりもむしろ日本語力(つまり最終的なアウトプットとなる言語)のほうなんだなっていうことを痛感しました。

また、今までの僕は、自分の考えを伝えるためにしか文章を書いたことがなかったのですが、今回の仕事で初めて、他人の意見で日本語の文章(しかも本一冊分もの量)を書きました。これもまた新しい体験でした。当然といえば当然ですが、自分の意見ではない他人の意見を文章にするというのは、元の意見(つまりこの場合原著の内容)をよくよく理解していないと本当に難しいものです。さらに、自分の意見を封印する必要もあります。まあ本当に、貴重な経験でした。

こうした経験によって得たものが、このブログや、またはその他の場所で行われる今後の僕の表現に、いくらかの成長をもたらしてくれたらなあ、と思わずにいられません。