北陸OSMの新年会に出席するために氷見へ向かう列車の窓から見た「首切り地蔵尊」と書かれた案内板が忘れられず、新年会の翌日、ハードショップ カナシチの金森さんに連れて行ってもらうことに。
金森さんは「首切り地蔵」の名から縁起の悪いお地蔵さんを連想していたらしく、あまり積極的ではなかったのですが、結局は渋々ながら連れて行ってくれて、無事に拝むことができました。いってみると、名前ほど縁起の悪いお地蔵さんではなく、海難よけの守仏でした。
で、その「首切り地蔵」、記憶ではJR氷見線の雨晴(あまはらし)駅のあたりで車窓から見える位置に案内板があったと思ったのですが、近くまで車で行ってもそれらしいものがみつかりません。そこで雨晴駅の駅員に尋ねてみると、ホームの中からしか行けないとのこと。見に行っても良いかと再び尋ねると、「構わない」と駅員。このあたりでは、駅の構内は出入り自由のようです。一応有人の駅だったのですが。
駅の構内に入ってみると、確かに高岡方面のホームの端に、前日見た案内板がありました。その案内板の横から続く階段を海のほうへ下りていくと、祠のような小さな地蔵堂があり、そこにお地蔵さんが祀ってあります。お地蔵さんの縁起は、案内板によると以下のようなものだそうです。
ここにある地蔵尊は、戦国欄背の頃より、「首切り地蔵尊」と伝えられ、能登通いの漁船、旅人に海難よけの守仏として尊ばれている
天正五年(1577年)7月、上杉謙信は、森寺城(湯山城)を攻めるにあたり、軍船を連ねてこの沖合に差しかかると、船が少しも進まなくなった。謙信の武将である有坂(鰺坂)備中はこの不思議こそ魔神の禍にちがいないと、上陸し松の間を探ったところ、側にあった地蔵がにこにこと笑っていた。備中は「魔神の正体見つけたり。」と一刀のもとにその地蔵の首を着ろ落としたところ、船はたちまち前進して目的地に向かうことができた。
なお同年9月、謙信は七尾城を攻略し、能登の地一体をすべて占領した。
人々は今も備中の「首切り地蔵尊」としてこの話を今に伝えている。
(大田村史から)

雨晴駅のホームに立っていた案内板はこんな感じのものでした。



