もちろん人の役に立つのも好き

前のエントリの続きっぽいことなんですけれども。先日のエントリでも紹介した書籍「Webマーケティング/広告戦略のセオリー」ですが、これ、僕が自分が書いたものではなく、Catherine Sedaという人が書いたものの翻訳で、まったくもって僕のエゴや表現欲求とは関係のないものです。素晴らしい内容だから、和訳を通じて多くの人に伝えたいという気持ち、多くの日本の読者の役に立ちたいという気持ちだけで、この仕事をしました。

確かに本には監訳者として僕の名前もクレジットされていますが、あくまで脇役的なもので、まあ少なくとも僕のエゴを満たすようなものではありません。エゴを満たしたいのであれば、自分の意見を本にまとめればいいわけですし、その道も用意されていました。でも翻訳という手段を選んだのは、この本の内容が僕のエゴよりも勝ったということなわけで。多くの人の役に立ちたい、というのは強い動機なわけです。

しかも、原著は僕が書いたものではありませんから、各所に僕の意見とは異なる箇所があります。しかし、そういうときも、原文の意図を尊重して、自分の意見は封印しなければなりません。もし僕が、アーティスティックでエゴイスティックなだけの一面的な人間なら、こういう作業には耐えられなかったでしょう。また、読者が感謝する対象は僕ではなく原著者なのであって、この意味でも僕のエゴは満たされません。

さらに付け加えるなら、僕はこの本の翻訳に正味で二ヶ月半くらいの時間を投入しましたが、受け取るギャラはわずか24万円です。二ヶ月半まるまる(昼も夜もなく)働いて24万円(本体価格2,000円 × 初版部数4,000部 × 監訳者印税3%)というのは、時間単価で言えば、コンビニのバイトのほうが上を行く低単価での仕事です。それでも僕は、人の役に立ちたいからこの仕事をしたわけです。

ただ、人の役に立ちたいなんていうことは、あらためて言うまでもないことで、人間というのはすべからく基本的にそういう感情を抱くものだろう、という思いもあります。人間は社会的な動物であって、それが生得的なものなのか後天的なものなのかはよくわかりませんが、たいていみんな、人の役に立ちたいといった欲求を持つものなんじゃないかと思うんです。それは有って当然の感情、というくらいの。

しかし、そこに「日本語を書くのが好き」という僕の属性が加わるからこそ、翻訳だの監訳だのという作業ができるのだということも間違いないわけで。日本語の文章を書く(つまり前のエントリでいった手を動かすこと)ということが苦痛なら、どんなに人の役に立ちたいと強く思っていたとしても、こんな仕事はできないんです。

僕はあくまでもプレイヤー(または作業者)ですが、それ以前の根本的な部分として、人の役に立ちたいという考えは当然に持っています。でもそんなことは、わざわざ明言するほどのことでもない、といったところです。

それはともかく、すぐ以前に「給料もらってクリエイター?」みたいなエントリを書いて、まあそのアート系の人々のことをこき下ろしたばかりの僕が、アーティスト的・クリエイター的な存在としてみられることには違和感を禁じ得ないわけですが、まあ得てしてコミュニケーションというのはいつもうまくいくというものではないわけで・・・。

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