このブログを始めてから、ブログのエントリを見て僕が寺院の巡礼を続けていることを知った人も多いようで、また、僕が巡礼を続けていること自体によほど違和感があるらしく、近頃いろいろな人から、巡礼の理由について尋ねられます。確かに僕は、信心と言えるような信心があるわけではなく、特定の宗派に属しているわけでもなく、何か願い事があるわけでもなく、ただ単に、寺を巡っています。日頃の僕を知る人にとっても、そうでない人にとっても、僕と巡礼の関係はわかりにくいものだと思います。
このエントリでは、僕と巡礼の関わりについて少し書いてみたいと思います。
僕の基本的な考えとして、「僕という人間は僕自身の力によって成立しているのではない」というものがあります。生まれてきたのは両親のお陰ですし、日々生きるための食料も、衣料も、住居も、僕が自分で作ったものではありません。僕のまわりの何もかもが、多くの人々が協力して作り上げ、多くの人々が協力して流通させ、僕の元に届いているのです。社会や、社会を構成する数多くの人々のお陰で、僕は毎日を生きることが可能になっていいるのです。すべては、僕を取り巻く環境や、人と人とのつながりがもたらした結果であって、僕が一人で、僕の自力によって為し得たことなど何もありません。
物質以外のところを見ても、僕が今まで様々な知識の習得ができたのは、教員や、教育の体制を作り上げ支える社会基盤があったお陰ですし、読書によって得た知見もまた、僕が読んだ本の著者や、その本の制作や流通に携わった人たちがいたお陰で僕にもたらされています。テレビから得た知見もまた同様で、番組の制作者や出演者、スポンサー、放送を支える人々、受像器の開発者や制作者や流通・販売者など、数多くの人々の支えがあってはじめて、僕はテレビから知識を得ることができます。人生の様々な場面で得た貴重な体験も、その場面を構成する数え切れないほどの人々がいて、はじめて成り立っています。
こうしてみると、僕は数え切れないほど多くの人々に支えられて日々を送ることができているわけで、それを思うと、素直に「ありがたい」と感じます。しかし、その感謝の気持ちは、特定の個人や法人や国家に帰されるものではありません。特定の個人や法人や国家が、単独で僕を支えてくれているわけではないからです。感謝するとしたら、その対象は、社会全体や、さらには宇宙全体のシステムへと向かうのではないかと思います。そして、そうしたシステム全体を投影する象徴として、概念としての神や仏がある、と僕は考えているのです。
「神仏を尊び神仏を頼まず」というのは宮本武蔵が死の7日前に記したという「独行道」の中の一節ですが、僕が巡礼を行う理由は、まさにここにあります。つまり、神仏はお願い事をする対象ではなく、僕の努力や仕事を見守り、支えてくれるものであり、単に尊ぶ(つまり感謝する)対象である、というわけです。以下に、その「独行道」を引用してみます。
- 一、世々の道をそむく事なし
- 一、身にたのしみをたくまず
- 一、よろずに依枯の心なし
- 一、身を浅く思い、世を深く思う
- 一、一生の間欲心思わず
- 一、我事において後悔をせず
- 一、善悪に他をねたむ心なし
- 一、いずれの道にも別れを悲しまず
- 一、自他共にうらみかこつ心なし
- 一、恋慕の道思いよる心なし
- 一、物毎にすきこのむ事なし
- 一、私宅においてのぞむ心なし
- 一、身ひとつに美食をこのまず
- 一、末々代物なる古き道具を所持せず
- 一、わが身にいたり物いみする事なし
- 一、兵具は格別、余の道具たしなまず
- 一、道においては死をいとわず思う
- 一、老身に財宝所領もちゆる心なし
- 一、神仏を尊び、神仏を頼まず
- 一、身を捨て名利は捨てず
- 一、常に兵法の道を離れず
「独行道」宮本武蔵 1645年5月12日
また、中国の宋代の儒書で、胡寅という人の書いた「読史管見」に有名な「人事を尽くして天命を待つ(盡人事待天命)
」という言葉がありますが、ここでいう「天命」も僕の神仏に対する考え方にぴったりです。つまり、結果を出すために人間にできることは人事を尽くすことだけで、その努力が報われるかかどうかは天命しだい、という側面は確かにあり、自助努力は欠かせませんが、自力だけでなんとなかるというものではないのです。ところが、僕は今まで数え切れないほどの幸運に恵まれており、その点については天命(つまりは神仏)に感謝するほかありません。
そうしたわけで、僕にとっては神仏への感謝は必須のこととなっているわけですが、その感謝の気持ちを常に忘れずにいるために実践すべきこととして、僕は巡礼を行うのです。感謝の気持ちを表し、明日への決意を新たにするために最適な方法はたくさんありますが、その中の一つに、寺院や教会といった礼拝のために最適化された場所(つまり霊場)に足を運ぶ、ということがあります。そうした霊場は、心を穏やかにし、神なり仏なりを身近に感じるための最適な環境とすべく、先人たちが築き上げてきた伝統に基づいて、まさに最適な環境が用意されています。誤解を恐れずにいえば、霊場に足を運ぶことは、その霊場が用意してくれたお膳立てに従って、自然に感謝の気持ちが持てるようになる場所なのです。僕が霊場に足を運ぶ理由はこうしたものです。
僕は仏教寺院を中心に巡礼を行っていますが、これは上記のような理由だけでなく、これも誤解を恐れずに述べるなら「観光」といった理由もあります。日常を過ごす場所を離れ、美しい風景を眺めたり、土地のものを食したり、といった観光の楽しみは、心を健康にし、精神を豊かにします。そして、仏教寺院の伽藍や庭園の多くは浄土を表現したものであり、四季折々の花が咲き、四季に応じて美しい姿を見せるため、この「観光」としての動機も高まります。僕が行っている「札所巡り」という巡礼方法は、各地の寺を巡っていく巡礼方法であり、たくさんの霊場に足を運びます。そのため楽しみも多く、それほど信心があるわけでもない僕であっても、苦もなく続けることができるという素晴らしいものです。
ここで僕が誤解を恐れずに「観光」という言葉を使ったのも、一つの確信があってのことです。つまり、古来「民衆にとって宗教は娯楽と一体だった」ということです。仏教が小乗から大乗へと推移する過程では、歌や音楽(声明など)、踊り(盆踊りや踊り念仏など)といった娯楽的な要素が、民衆に伝播していくための媒介となりましたし、キリスト教やユダヤ教におけるゴスペルや聖歌なども、昔の民衆にとってはある種の娯楽としての要素が強かったのではないかと思います。もちろん日本各地で行われる様々な「お祭り」はすべて、神事であると同時に娯楽でもあります。
仏教を例にとっても、そこに参加・実践する方法は様々で、その人その人によって最適な方法で、そこに参加・実践すればよいと思います。読経でも舞踊でも、または写経や写仏でも、書道や、香道、華道でも、そして巡礼でも、その人に合った方法で、楽しく実践できればそれが一番です。僕たちはみんな俗世に生きる民衆ですから、ストイックな求道だけを良しとするのではなく、楽しみながら続けられる方法を選択し、それによって少しでも人生を豊かにすることができれば最高です。そして、僕にとってのそれは「巡礼」なのです。
つらつらと書き連ねてきましたが、僕にとっての巡礼とはだいたいこんな感じのもので、信心というよりは趣味であり娯楽であって、何か凄いことをしていたりするわけではありません。今風にいえば、日々を楽しくするための "Life hack" の一種です。少しくらいはご理解いただけるでしょうか?



