アフリカの飢餓を救済するチャリティコンサート「We Are The World」が開催(3月7日)というニュースと、グラスノスチやペレストロイカを掲げたゴルバチョフがソ連の書記長となった(3月11日)というニュースが、ほぼ同時に流れたのは、1985年、僕が世界の動向にも目を向けるようになった中学1年生の3月のことです。この頃から、僕は国内や海外のダイナミックな動きを意識するようになり、それに対してまったく無力な自分の姿を、漠然とした矛盾として認識するようになります。
豊かな西側諸国と、飢餓に苦しむアフリカ諸国、そして民主化へと突き進む東側諸国のニュースは、思春期の僕には強烈すぎました。僕が住む日本は対外貿易黒字で世界一になり、僕たちは経済大国としての豊かな暮らしを享受している中、僕の存在はその世界に対して何の影響力も持たないという事実。当然のことといえば当然のことではありますが、思春期の僕にとって、このような認識が生まれることは大事件でした。特段の情報種集能力や行動力のなかった中学生当時の僕は、舞い込んでくるニュースによって断片的に世界を知り、それでも世界への興味を大きくしていきました。
この頃、筑波科学万博の開催やオゾン層破壊の問題化などから、ガイア理論(地球生命体説)が見直され、地球全体が大きなシステムであり、生命体であるという考え方がよく知られるようになってきました。その理論自体は東洋思想的でもあり、直感的な理解はそれほど難しいものではありませんでしたが、しかし、その理論は、僕の自分自身の存在に対して価値を与えてくれるものではありませんでした。僕一人の存在が及ぼす影響は、システム全体の中でもごくわずかな範囲にとどまるのみであり、地球というシステム全体にとってはまったく取るに足らないという事実が、僕を悩ませました。
思春期にありがちなアイデンティティの確立の問題は、僕にとっては政治や経済、地球環境などの構造的な問題と対峙するものとして、僕に迫りました。この頃の僕は、物事の本質とその関係性などに興味を持ち、その後に知った言葉で言えば構造主義的な考えを持ち始めます。そして構造主義と自分の影響力の小ささという葛藤は、この後今に至るまで僕の中でくすぶり続ける大問題へと発展していきます。
中学校3年生になった翌1986年の4月には、電電公社の民営化とチェルノブイリ原発事故があり、翌1987年4月には、国鉄からJRになったばかりの電車に乗って高校への通学を始めます。このころには小遣いやアルバイトの賃金などで可処分所得が増えたことや、電車通学の影響によって行動範囲が飛躍的に広がったことなどから、古本屋、ジャズ喫茶、映画館に入り浸る毎日が始まります。こうして僕の交際範囲や情報収集力は大きくなり、これらの結果、僕の人生は思わぬ方向に転がり始めます。



