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相手を尊重できる距離

考え方や感情によって、同じ風景でもまったく違って見えることがあります。例えば、夜空に浮かぶ月を見ても、とてつもなく悲しいものに見えることもあれば、安らかに見えることも、恐ろしげに見えることも、楽しげに見えることも、興味深いものに見えることもあります。

自分自身ですらそうなんですから、その同じ月を他人がどう見ているかなどということは、まったく想像すらできないことですし、おそらくは僕とは違って見えているにちがいありません。その違いはとても楽しいことで、まさに他人と交流を持つことの楽しみは、そういった違いを知ることにあると思います。「ふーん、そんなふうに見えるんだー」というのが、楽しい瞬間だと。

いつだって、他人との違いを楽しめるように、自分自身を整えていたい。でも、自分自身を整った状態に保つことが難しいときだってあります。例えばその違いを矯正すべく他者からの強い介入がある場合。具体的には、

「この月は僕にはすごく楽しげなものに見える」
「いや、この月はあなたにとっては本当は安らかなものであるはずだし、私はそうであると信じている。私はあなたにとってこの月が安らかなものであるべく尽力する」

のように、僕の見え方を受け入れず、僕に違う見え方を強要する人がいた場合、こういった人と相互理解を深めることは、極めて難しいのです。

他者を受け容れるということと、自他を同化させることの間には、とてつもなく大きな違いがあると思うのです。他者を受け容れる、というのは、彼の価値観を含めてあるがままの彼を認めることであり、これは素晴らしいことです。しかし、自他を同化させるというのは、自分か彼のどちらかの価値観を否定することであるように思えます。僕は、否定の上に成り立つような人間関係は好みません。

つまり、僕は他者と同化したいとは考えないのです。僕は僕、彼は彼。認め合っていけばいいだけだと思うのです。僕には仮の姿も真の姿もなく、ただそこに現実の僕が存在するだけです。その僕を肯定できないなら、そこに良好な人間関係が生まれるはずもなく、縁がなかったとあきらめたとしても、それは許されることなのではないかと思います。悲しいことですが、合わないのですから。

しかし困ったことに、このような関係はしばしば親しい人たちの間で生まれます。ごく近しい友人や家族など、接触頻度が高く、会社やサークルや家庭などのような共同体的な組織に一緒に所属していたりするような人同士で、同化しているかのような幻想と、実際には同化していないという現実との間に葛藤や軋轢、場合によっては自己否定のような感情が生まれるのです。

親しいからこそ、お互いを理解しているかのような幻想が生まれ、親しいからこそ、相手の価値観に介入しなければならないという義務感が生まれるのではないかと、僕は思います。親しい、という一見すると幸せなことに見える関係が、まったく逆の効果を生むのです。たいへん残念で、この上なく寂しいことですが、このようなことは現実に起きます。

そこで僕は、「近すぎない関係」を求めるようになります。「近すぎない関係」とは、接触頻度が低く、会社やサークルなどのような共同体的な組織に一緒に参加しているわけでもなく、かといって競合関係や敵対関係にもないような、それほど親しくない友人、といった関係です。

このような場合、相手の人格や価値観に対して積極的に介入する必要性が生じることはなく、同様に、彼が僕の人格や価値観に対して積極的な介入をすることもありません。相互に理解し合っているかのような幻想が生まれることもなく、お互いが別の人であることが当然で、必然的にお互いを認め合う関係になります。そこにあるのは、お互いの人格や価値観に対する尊重と、知的な交歓のみです。居心地が良く、それでいて知的な刺激に富み、僕にとってはこの上なく理想的な関係に思えます。

ある人が見れば、僕のこのような考え方は、「傷つくことや傷つけることをおそれて、自分の殻に閉じこもっている」というように見えるかもしれません。しかしそれは僕の真意ではありません。僕は人間関係こそが僕のすべてであると考えていますし、そのためによりよい関係の構築を望んでいます。そしてその結論の一つが、「お互いを尊重し、一定の距離を保つ」ということなのです。

これは今の時点での僕の考え方に過ぎず、この先にはさらなる変化があるかもしれませんが、少なくとも今は、僕はこのように考えているのです。

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