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俗世間に疲れても

仕事に追われたり、人間関係に悩んだり、生活に疲れたりしていると、厭世観がむくむくと起きあがってきて、禅の寂静に惹かれたりします。この世が欲望に支配される苦と無常の世界のように見えてきて、世俗を離れて一人で自然や自分と対話したい、というような感じで。でもそんな考えは、近道しようとしているだけに過ぎなくて、本当の寂静に至るためには実際はもう少しステップがあるようなんですね。例えば釈迦。

釈迦は王家の出身で、子供の頃から自分のための宮殿や使用人や教師を持つなど、インドの特権階級ならではのまさに贅を尽くした生活をしていたと伝えられています。そのような現世の楽しみをすべて味わうような生活を二十代後半の年齢まで続けた上で、世の無常を嘆き、すべてを捨てて29歳で出家したというのです。

要は釈迦は、現世での楽しみをすべて知っていて、その楽しみの限界すらも知って、その上で「一切はみな苦である(一切皆苦)」と悟ったのだと思います。つまり、もう飽きた、と。十分に贅沢はしたけれど、もううんざりだ、と。
簡単にいうと、釈迦は現世を楽しみ尽くした上で、その現世の楽しみの限界を悟り、本当の楽しみを探す旅に出かけた、ということらしいんです。現世の楽しみすらもまだまだ知らないような僕とは大違いですね。

まあ、我々凡人は現世を楽しみ尽くすなんていう段階にはほど遠くて、現世の楽しみをたくさん夢見ています。具体的なそれは人それぞれでしょうが、欲しいものもたくさんありますし、それを手に入れることによって楽しむこともできます。そんな段階では、まだまだなんですね。「生・愛・笑い」(オショー・ラジニーシ)の中に、以下のような文があります。

生・愛・笑い あの世にあこがれてはいけない。この世を生きなさい。そしてそれを強烈に、情熱を持って生きなさい。それを余すところなく、あなたの全存在で生きなさい。そして、その信頼全体から、情熱と、愛と、喜びの生から、あなたは超えてゆくことができるようになる。

・・・(中略)・・・

この地上の一輪の花になりなさい。そしてそれを通して、ブッダにーー超えた世界の花になる力量を稼ぎとりなさい。超えた世界は、この世間から離れてはいない。超えた世界はこの世間に反してはいない。

簡単にいうと、この世間の楽しみの次の段階として、超えた世界がある、とラジニーシは言っているわけです。この世間ですら楽しみ尽くせていないのなら、次はあり得ない、と。
なるほど。

確かに、僕の住む場所は、この身体以外のどこにもなく、この世界以外のどこにもありません。それを無視して寂静を求めたりするのは、ずるい近道を探そうとするようなものなのかもしれません。「空海の思想について」(梅原猛)の中に、空海の密教について説明する以下のような文があります。

空海の思想について あの、人間を不幸におとしいれる欲望は否定され、浄化されるが、しかし、欲望そのもの、浄化され、普遍化させた欲望そのものは、大欲として肯定され、そして、世界そのものは、かつて仏教の歴史において存在しなかった強い前面肯定の感情で、ほぼ全面的に受け入れられるのである。

世界というものは素晴らしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ。

こういう文章や考えに触れると、まだまだ見つけていない宝物がたくさんあることを思い出しますし、その宝物を探すことをもう少し続けてもいいなあ、などと思って力が湧いてきたりするのです。

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