今年に入ってからの僕は、寺院を巡礼する際に、時間との兼ね合いもあるものの、ほとんど必ず奥の院や開山堂まで登るようにしています。山中の寺であれば、奥の院や開山堂は多くの場合、人を拒むかのような険しい山頂かまたはそれに近い場所にあり、そこまで参拝に行く人はほとんどいません。したがって参道は荒れ、歩を進め奥の院に至までには登山者か山岳修行者のような体験をすることができます。

その体験とは、現代風にいうならランナーズ・ハイのようなもので、高山の薄い空気からくる酸素欠乏や発汗による水分の欠乏、極度の疲労などのストレスが身体に重なると、その苦痛を和らげるために、脳内にモルヒネに似た快楽物質である「エンドルフィン」が分泌されます。すると苦痛が和らぐだけではなく高揚感さえ得られ、ランナーであれば「どこまででも走れるような感じ」、登山者であれば「どこまでも登れるような感じ」、そして山岳修行者であれば「自然と一体化したような感じ」、入滝する修験者などであれば「神仏と一体化したような感じ」が得られるというわけです。
そしてただ坂道を必死で登っただけであっても、その舞台が山深い寺の奥の院などであった場合、別にランナーでも登山者でも行者でもない僕ですら、大量に分泌されたエンドルフィンや、山頂からの眺望によって得られる興奮状態などから、ある種の、自然との一体感というか、身心が清浄になったような感覚を強く持つことができます。この体験が癖(いわば中毒状態)になり、今の僕は寺に参れば自動的に奥の院を目指す、という状態になっています。僕自身はいわゆる神秘体験の類は体験したことはありませんが、それでも、それが修行中の僧だったりすると、彼が登山の後に何らかの仏様を感得したりしたとしても、まったく不思議には思えません。
さて、先日訪れた青葉山 松尾寺の山主である松尾心空さんが「西国巡礼慈悲の道」という法話集に掲載されていた法話に「歩行禅」というものがあり、以下のように説明されていました。
左脚は鍬(くわ)、右脚は鋤(すき)、左右の歩みは、この鍬と鋤で、心田を耕す。
一つの鉄片を砥石にかけて針を作るように、歩行で煩悩を磨り減らして仏心を研ぎ出す。
禅でいう、一寸坐れば一寸の仏、二寸坐れば二寸の仏、の言葉の如く、脚は彫刻のように、一歩歩めば一歩の仏、二歩歩めば二歩の仏を我が心中に刻んでゆく。その仏との出逢いにこそ「歩行禅」の意義がある。
西国巡礼慈悲の道 パートV「徒歩巡礼による歩行禅」松尾心空
ここで松尾心空山主が述べておられるのは西国三十三所霊場の徒歩巡礼のことであり、常人に真似のできるものではありませんが、しかし「歩行禅」の考え方には驚きました。歩行禅というと普通は、修験者(山伏)が「懺悔懺悔、六根清浄(ろっこんしょうじょう・眼耳鼻舌身意の六根を清浄にしたいという願い)」などと唱えながら山を歩く姿や、禅の修行者が叉手当胸(しゃしゅとうきょう・胸の前で左拳に右手を重ねる)の姿勢で一息半歩のゆっくりとした速度で歩く経行(きんひん)を思い浮かべるものだと思います。しかし、そうした行にどういった意味があり、どういった境地に至るのか、ということまでは僕は知りませんでしたし、当然、それに近いことを実践可能だとも思っていませんでした。
禅の世界では、掃除や洗濯や炊事やその他の仕事などの作業や、人や物と接することなど、生活の全てが修行の場であり、禅の実践であるそうです。とはいえ僕のような凡人は、残念ながら、日々の雑務を禅の修行と捉えて精進するようなことは到底無理で、ごくたまに、寺に参るなり山に登るなりしたときだけ、そうした禅の世界を垣間見ることができる、というあたりがせいぜいです。
しかし、そうした日常を離れて山に入るときなどには、松尾心空山主の言葉を思い出し、左右の脚を鍬と鋤に見立て、一歩一歩の歩みによって心田を耕し煩悩を磨り減らし仏を刻むことができれば、さらに充実した巡礼の旅を送れるように思えます。これも今風にいえば、一種のLifeHackなのでしょう。この「歩行禅」、さっそく次回から実践してみたいと思います。
また、この松尾心空山主には多くの著書があるようなので、一冊くらい読んでみようかな、とも思います。山主は15年間で6000kmを踏破した巡礼の達人であり、歩行巡礼の会「アリの会」も主催している上、法話も面白いとの評判です。僕もいくつかの法話に接しましたが、どれもとても面白かったです。とりあえずは、今回興味を持たせていただけた歩行禅に関する書籍、その名も「歩行禅—呼吸のくふうと巡礼の瞑想」あたりから始めてみようかと思います。



