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ストレスも芸の肥やし

さざ波のように押し寄せる動揺や不安、焦燥感、嫌悪感、孤独感。こうした心の動きに苛まれて苦しくなることはそう珍しいことではありませんが、それらの心の動きの多くは、ありがちな、誰でも常に抱えているような、一つ一つはそれほど深刻化していないような細かい問題に端を発していて、まあいわば、どうでもよいというか、どうにもならないというか、どうこうすべきものですらないようにも思います。僕個人の状況でいえば、社会人になって以来、今が最も安定しており、余裕もあり、勉強も冒険もできる恵まれた状況にあります。しかし、日々の些細なストレスから解放されているわけではありません。むしろ生活や仕事に余裕ができたぶん、ストレスを感じる余裕もまたできてしまった、という感じなのかもしれません。贅沢なものです。

様々なストレスはありますが、中でも特に発生する頻度が高く、煩わしいのは、人との関わりからもたらされるストレスでしょう。少なくとも僕にとってはそうです。人間は社会的な動物ですから、人と関わるのも、そこでストレスを感じるのも、ある意味仕方のないことなのでしょうけれど、仕方がないと思ったからといって、ストレスが軽くなるわけではありません。好きな人がいても嫌いな人がいても同じようにストレスを生じますし、人がグループになれば否応なしにグループ内の政治が生まれ、グループが複数になればグループ同士の外交が生まれ、といった具合で、人と関わりを持つ限り、ストレスから解放されることはありません。限りなく面倒です。

コミュニケーション自体はそれほど悪いものではありませんし、ちょうどいい距離を保てる人とのコミュニケーションは快いものですが、いつもそううまくいくとは限りません。不快なコミュニケーションを繰り返す人もいます。悲劇のヒーロー(またはヒロイン)になりきって、可哀想な自分、逆境に耐える自分を必死でアピールし、同情票の獲得を目論むような行動に出る人もいるでしょう。または逆に、自分の威力や有能さを必死で誇示し、尊敬を集めようとする人もいるでしょう。こういう人々との交流は僕にとって、それが直接的なものであろうと間接的なものであろうと関係なく、常に、強いストレスの源泉となります。それほど極端でなかったとしても、人間同士の交流はどんなものであれ政治的な駆け引きのようなもので、常に疲労やストレスと隣り合っているように思います。

完全に一人で、人と交流することなく、仙人か山岳修行者のように人里離れた場所で通信手段も持たずに過ごせば、ストレスを感じることなどないかもしれません。しかし、それはあまり潔いものではないように思います。出家した僧のような生活に憧れはあるものの、それはある種の逃避のように見えると同時に、ストレスから逃れて過ごしても、成長は望めないようにも思うのです。無菌室で育てられた動物の子供が野生の環境では生きていけないように、ストレスから逃避し社会を離れてしまった人間にも、それ以上の成長は望めないのではないかと思えます。楽しいことも苦しいことも、すべては人との交流の中にあり、それらを味わい尽くすことで、次のステップが見えてくるのかもしれません。

生・愛・笑い 低いものを通り抜けない限り、高いものへと入ることはできない。あなたは低いもののあらゆる苦悩とエクスタシーを通過することによってのみ、高いものを稼ぎとることができる。蓮は蓮になる前に泥を通ってゆかねばならない。──その泥が世間だ。僧侶は泥から逃げ出した。彼は決して蓮にならないだろう。それは、まるで蓮のタネが泥の中に落ちるのを怖れているかのようだ──おそらくは、「私は蓮の種だ! 泥の中に落ちるわけにはゆかない」というエゴのせいで。しかし、そうなってしまったら、それは種のままにとどまることになる。それが蓮として咲くことはけっしてないだろう。もし蓮のように咲きたいのなら、泥の中に落ちなければならない。この矛盾を生きなければならない。泥の中で生きるという、この矛盾なしには、超えてゆくことなどありはしない。

「生・愛・笑い」オショー・ラジニーシ

仏教の実践徳目である六波羅蜜を見ても、布施や忍辱は社会の中でしかあり得ませんし、持戒や禅定や般若は、判断力や智慧を曇らせる環境の中にあってはじめて、つまり社会の中にあってはじめて実践が可能になります。キリスト教における「隣人愛」もまた、隣人がいなければ成立しません。キリストや、市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也や、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれた一遍、生涯寺を持たなかった良寛などの例を引くまでもなく、社会の中で生きることこそが難しくも楽しい修行であって、その難しくも楽しい修行を乗り切ることに価値があるのかもしれません。

何かと心を悩ませることも多く、それらは愉快なことも不愉快なこともありますが、それらをそのように感じるのも、僕が人間であればこそ。愉快なことも不愉快なことも楽しみながら、じたばたともがくのも悪くないのかな、と思います。すべてを楽しむのはなかなか難しいものですが、そこは少しずつ。不愉快な思いをするのも、動揺するのも、悲しむのも、すべて、嬉しかったり楽しかったりするのと同様に、まさに僕が生きている証でもあるのですから。

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