最近、ブログ上で「コミュニケーション」に関する議論が活発になっているようです。その中にあった「コミュニケーションスキルとして求められる能力の中核は政治力だ」というような話が各所で盛り上がっており、これらを読むと、今まで自分自身がコミュニケーションというものについていかに浅い考えしか持っていなかったかを思い知らされた気がします。今にして思えば、僕はコミュニケーションスキル(つまり「政治力」)を駆使して社会的に成長してきたわけですが、あまりこの点には自覚がなく、新しい視点が得られたような気がします。コミュニケーションが政治的とはいっても、僕が志向するのはパワーゲームのような殺伐としたものではなく、もっと平和的な、自分や自分とつながりのある他者にとってより適応的な状況を作ろうとする、といったものですが、いずれにしても、その政治的な側面についてはまったくノーマークで、目の覚めるような思いでした。
僕は常々、近しい人たちに対しては、僕のキャリアは幸運な出会いの積み重ねによって形成された、というような話をしています。僕のキャリア形成にあたって、自助努力もいくらかは寄与しているかもしれませんが、それよりはむしろ、様々な人たちとの出会いや関係性によってもたらされた社会的ネットワークの成長が、より強く僕のキャリア形成に寄与していると思うのです。つまり僕は、運とネットワークのお陰で成長した、というのが今までの認識で、それは以前のエントリ「リンク重視のSEOに関する考察」や「ネットワーキングは先端なのか」あたりで書いていたとおりです。
さて、そこで目にしたのが「分裂勘違い君劇場 - 「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し」です。ここでは、「空気を読む」ということについて、
まずそもそも「空気を読む」とはどういう行為なのか?
それは、人々の複雑に絡み合った「利害と感情の構造」を読むということだ。
「リアルタイムでダイナミックに変化している、人々の利害関係と感情関係の構造の状態を瞬時に読み取る」という行為だ。
だから、空気を読めてない人は、感情と利害の絶妙なバランスとハーモニーのある構造を崩し、不協和音をたてるような発言をし、結果として、人の感情を害したり、人の利益を阻害したりしてしまい、嫌われるのだ。
として、企業が欲しがるような「コミュニケーション能力」とは、利害と環状の構造を理解し、乗りこなし、操作する能力であるとしています。つまりは「政治力」と同質である、と。この考えには驚きました。恐ろしく言い得いているように思うのです。また、「シロクマの屑籠(汎適所属) - 情愛的コミュニケーションにこそ、強い政治性が潜んでいる」には、以下のような説明がありました。
ディベートや(雄同士の)政治的駆け引きから遠い、親子愛・恋人同士の共感なども、繁殖・生存・有利・快適を巡る政治ゲームの一環であるという視点を切り捨てることは無理だと思う。まして、カップルが無人島に二人きりならともかく、それをまなざす第三者との力学をも含んだ状況下では、なおさらそうなんじゃないだろうか。
ここで、私が大好きな行動学におけるコミュニケーションの定義を引用してみよう。
行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである。
byジャレド・ダイアモンド博士
女性達は、(男性達が得意とする)ロジックや政治力学に基づいて政治力を発揮するのはあまり得意ではないかもしれないが、情動レベルの働きかけを通して男性の行動確率を変化させるのは上手い。逆に男性側も、言語ロジックや暴力すら含めた種々の働きかけによって女性の行動確率を変化させ、自分(時には自分と相手の双方)の適応を向上させるようなカードを切るのにいつも必死である。男性のソレと女性のソレは種類や見た目こそ違えど、最終的に当人自身の適応を(他者への働きかけを通して)向上させるような目的が含まれていることに私は注目せざるを得ない。
少し長い引用になりましたが、強引にまとめると、ここで語られているのは、「すべてのコミュニケーションは政治的である」ということです。
そうした視点で自分自身の成長を振り返ってみると、僕自身が考えていたように、周囲との関係性の上で社会的な成長がもたらされてきたわけですが、その関係性(人的ネットワーク)を形成していく上での媒介となったコミュニケーションは、確かに政治的だと思うのです。政治的であることを意識するかしないかにかかわらず、僕たちは他者とコミュニケーションをとり、先の引用の通り「他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらす
」ように行動します。
そして、コミュニケーションが政治的なパワーゲームのようにならずに、周囲の人々との間でうまく機能するためには、「自分だけに適応的な状況」を作り出そうとするのではなく、「自分と相手の両方に適応的な状況」を作り出すように動けばよいのでしょう。つまり、コミュニケーションとは、自分と自分の周囲の人たちにとって良好な環境を作ろうとする政治的な働きかけであり、コミュニケーションスキルとは、そうした働きかけの際に、周囲の人々の複雑に絡み合った「利害と感情の構造」を正確に読み、それらをうまく調整しながら良好な環境を作っていく能力なのだと思います。
例えば、最近初めて、いわゆる「ビジネスブログ系」の書籍「ブログ・オン・ビジネス - 企業のためのブログ・マーケティング」(シックス・アパート編)を読んでみたのですが、そこでは、企業がブログを活用するメリットの最大のものとして「ブログを使ったコミュニケーション」を挙げており、ブログを単なる情報発信や宣伝のためのツールとして使うのではなく、コミュニケーションツールとして使うことで、読者の意見や感想などのフィードバックを得たり、交流を通じて読者のロイヤリティを高めたり、といった効果が得られる、としていました。正味のところこの本を読んだ感想は「たったこれだけ?」というものだったのですが、今になって、「コミュニケーション」というのが、自分と周囲の人との間の利害と感情を調整し、自分と周囲の人の両方にとって適応的な状況を作り出すための政治である、という視点を得て、「なるほど」と腹に落ちたのでした。
何にせよ、コミュニケーションに対する新しい視座を得ることができたのは、とてもいい経験でした。特に、上の引用の中の「行動学で言うコミュニケーション」はとてもいい勉強になりました。いい機会なので、何かこの分野についても少し勉強してみたいと思います。



