SEOの施策を検討する際には、結論としては常に、「様々な細かい施策はあるものの、最終的には優れたコンテンツを作ることが一番」というようなところに落ち着いてしまいます。これは、多くの人々に支持され、数多くのリンクが得られるようなコンテンツが、結果として検索エンジンにも高く評価される、といったもので、もちろん間違っているわけではありません。どんなにSEOを意識した緻密な実装がなされていたとしても、ユーザーに支持されないコンテンツではリンクポピュラリティは得られず、結果として検索エンジンには高く評価されることはありません。しかしこの結論では、「優れたコンテンツとは?」というところで疑問が残ります。
また、Webユーザビリティにおいて「使いやすさ」や「利用品質」を突き詰めようとしたり、Webアクセシビリティにおいて「到達可能性」を突き詰めようとする場合にも同様の疑問が残ります。つまり、どんなにユーザビリティやアクセシビリティに留意したサイト制作(というよりも実装)がなされていたとしても、そもそもそのコンテンツが、ユーザーの利用動機を高めるだけの魅力がなければ、ユーザーはそこにアクセスすることはなく、実装だけのユーザービリティもアクセシビリティも、大きな意味は持ちません。ユーザーが「使わない」というのは、「使いにくい」とか「使えない」とかいう以前の問題なのです。つまり前提に立つのはユーザーが「使いたい」という動機を持つコンテンツを提供する、ということです。
先に紹介したWebユーザビリティ、Webアクセシビリティの前提として必要なことは「そこにアクセスすることを動機づける何か」が存在するということであり、SEOにおける「優れたコンテンツ」とは、「そこで得られるものを他のユーザーとシェアしたい」とユーザに思わせるものです。つまりWebユーザービリティやWebアクセシビリティは、そのコンテンツを利用したいと思うユーザーの動機なしには成立せず、SEOにおいては、そのコンテンツを利用したいという動機があるだけでは足りず、リンクポピュラリティを高めるためには、ユーザーにとって、そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいと思わせるものでなくてはならないのです。
少し極端な例を挙げてみましょう。そのコンテンツを利用できなければ生命の危機が訪れる、とか、利用できなければ致命的な経済損失を起こす、とか、利用できなければ問題が解決できない、とか、利用することによって大きな楽しみが得られる、とか、利用することによって大きな競争優位性が生まれる、とかいうような極端な例で考えてみれば、その本質はわかりやすくなるでしょう。コンテンツを利用する動機が強ければ強いほど、ユーザーは何とかして利用しようとしますし、場合によっては、それを利用できる環境を揃えることから始めるかもしれません。それは昔から「キラーコンテンツ」と呼ばれたものの姿であり、例えばかつて、Adobe Photoshopを利用するためにMacintoshを購入したユーザーは多くいましたし、Microsoft Officeを利用するためにPCを購入したユーザーは多くいましたし、スーパーマリオブラザーズやドラゴンクエストをプレイするためにファミリーコンピュータを購入したユーザーも数多くいました。これらはすべて、コンテンツの魅力がデバイドを乗り越えた例です。
話をWebに戻しましょう。動機が充分にあったにもかかわらず、それでもそのコンテンツが利用できなかった場合、それはWebを利用するための環境を含めたユーザービリティかアクセシビリティの欠陥によるものだと考えてよいでしょう。ユーザーはWeb制作者に苦情をいうでしょうし、またはブラウザベンダーに苦情をいうかもしれませんし、ことによっては端末のメーカーや、端末に搭載されたOSのベンダーに苦情をいうかもしれません。または、苦情すらいわずに黙って他のWebサイトや別のプラットフォームに乗り換えるかもしれません。
こうした動きに対して、Webコンテンツの制作者や、ブラウザやOSのベンダーなどは、ユーザビリティやアクセシビリティを向上させるという対応を行ってきており、今も試行錯誤が繰り返されています。そしてその結果、どれも歩みは決して速いものではありませんが、サイトがアクセシブルになったり、ブラウザがWeb標準に準拠したものになったり、OSが使いやすくアクセシブルなものになったりしています。また、障害者や高齢者のための様々な支援技術や、母国語以外の言語で配信されているコンテンツを利用しやすくための翻訳技術も発展してきました。Web検索などの情報検索技術の進化もまた、Webにおけるユーザビリティやアクセシビリティを向上させるための取り組みの一つと見てもよいでしょう。
しかしWebにおけるこうした一連の動きは、あくまでも「プラットフォームの整備」の域を出ません。どの施策も「そのコンテンツを利用したいという動機」がユーザーの側に前提として存在しなければ、まったく無意味なものになってしまいます。テレビコマーシャルや電車の吊り広告のように強制的にユーザーにそれを見せるタイプのアプローチをとる媒体であれば、その表現の中には「そのコンテンツを利用したいという動機」など関係ないかもしれません。ユーザーの動機とは無関係に強制されてしまうのですから。しかし、Webにおいてはそうはいきません。冒頭で述べたような「そのコンテンツを利用したいという動機」や「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」がなければ、コンテンツが利用されたり、ユーザーが拡大したりすることはないのです。
逆に言えば、いくらそのコンテンツをアクセシブルにしようと努力しても、使いやすいものにしようと努力しても、そのコンテンツ自体がユーザーを動機付けできないものだったとしたら、何の意味もありません。これはWebユーザビリティやWebアクセシビリティに限ったことではなく、SEOについても同様のことです。どんなに検索エンジンに優しい作りのサイトでも、そこで発信するコンテンツがユーザーにとって、自分が利用したいという動機も他のユーザーと共有したいという動機も生まないものだとしたら、検索エンジンから高い評価を継続的に得ることは難しいでしょう。
前置きが長くなりましたが、やっと本題に入ります。ここまで述べてきたとおり、プラットフォームとしてのWebを考えるときには、ユーザービリティやアクセシビリティといった取り組みは重要なことです。検索エンジンに優しいサイト作りというのも重要かもしれません。しかし、個々のWebサイトの制作・運営をみると、それだけでは足りず、むしろそれ以前に重要なことがあることに気付きます。それは、個々のWebサイトのコンテンツ開発者がすべきことは、「そのコンテンツを利用したいという動機」や「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」を企画し、制作し、実装、運用することです。では、そうした動機を生むようなコンテンツとはどのようなものか、少し考えてみたいと思います。
まず簡単に思いつくのは、そのコンテンツの利用前と利用後でユーザーがまったく変化しないコンテンツは、ユーザーにとって価値のあるコンテンツではなく、そうしたコンテンツに対して何らかの動機を持つことは難しいだろうということです。ユーザーはコンテンツに対し、悩みや問題を解消するような情報やサービス、安さや早さなど何らかのベネフィットを供出する情報やサービス、気分をリフレッシュするような娯楽などを求めており、そうした欲求や動機のようなものが満たされれば、ユーザーの状況は変化します。例えば、仕事上の課題が解決した、とか、欲しいものを安く買えたとか、ストレスが解消した、とか、そういった変化です。もちろん、知らなかったことを知った、というのも変化でしょう。
上記から、そのコンテンツの利用者にとって、以下のリストに当てはまるいずれかを変化させることのできるコンテンツは、ユーザーの利用を動機づけるものだといえるのではないでしょうか。
- 知識
- 感情
- 意志
- 思考
- 行動
- 価値観
- 意識
- 関心
- 意欲
そのコンテンツを利用することによって、ユーザーが上記のようなものを変化させ、結果、ユーザーの悩みや問題やストレスを解消したり、何らかのベネフィットを享受したり、ということができるコンテンツであれば、それは「そのコンテンツを利用したいという動機」を生むでしょうし、そこでの体験が優れたものであったとしたら、同じようなニーズを持った人に対して「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」も生まれてくるかもしれません。
では、ユーザーに対してそうした変化を提供できるコンテンツをどう企画・制作・運用するか、というところですが、これも特殊なことではなく、きわめて戦略的、理論的に実行することが可能です。例えば、ある商品の良さを理解するために旧来の価値観を改めなければならないのであれば、価値観を変化させるような情報を設計・編集して掲出すればよいでしょう。同様に、ストレス解消のために感情に訴えかけたい場合でも、得たい感情を引き起こすために必要な情報を設計・編集して掲出すればよいのです。
そして、ユーザーの体験がより印象的であればあるほど、「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」も生じやすくなるのではないかと僕は考えます。例えば、単に知識に変化を与えたいだけの場合であっても、どんな知識を供出するのかということだけでなく、どんなシナリオに沿って、どんな演出によってその知識を知ってもらうことが最善なのか、ということを考えれば、知識の変化だけでなく、体験もまた印象的なものとなり、「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」もまた生じやすくなると思うのです。
ここで必要なことは、ロジックを設計し、演出を加えながらユーザーを誘導するようなシナリオを描き、各種の資料などの小道具を集め、ユーザーを驚かせたりするような仕掛けを施し、演出を含めて全体のバランスを整えてコンテンツを供出する、といったものです。ここで述べたことは、供出する内容が、何らかのセールスであれ、娯楽であれ、またはその他の情報であれ、共通のものです。特に、ユーザーにより印象的な体験をしてもらうためには、シナリオや演出
を工夫することが有効です。同じ情報を受け取るとしても、その体験が刺激に富んだものであればあるほど、感情を揺さぶるものであればあるほど、印象は強くなり、「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」も高まるでしょう。
少し個人的な話になりますが、僕は「クリエイティブ」とか「クリエイター」とかいう言葉が嫌いで、どうにもしっくりこないのです。Webにおいても、他のプロダクトにおいても同様ですが、上で述べたようなシナリオを描いたり演出したり、それらを形にしたり、といった仕事の結果が「クリエイティブ」と呼ばれ、その仕事をする人が「クリエイター」と呼ばれたりします。しかし僕の考えでは、彼らは単に、自分が持っている知識や技能を使って戦略的に行動しているだけだと思えるのです。
クリエイトが意味するところが、文字通りの創造、つまり無から有を生じさせることだとしたら、僕は、人がそんな能力を持っていると考えること自体、傲慢以外の何でもないんじゃないかと思ってしまうのです。人は、もともと材料があって、それらを組み合わせることによって新しいものを生み出します。無から有を生じさせる、つまり創造(クリエイト)するわけではありません。オマケをつけるとか、編集するとか、演出するという言い方のほうがむしろ近い気がします。
さらには、もし無から有を生じさせることができたとして、または極めて独自性の高いものを生み出すことができたとして、それが優れたものであるケースは極めて稀なのではないかと思います。希有な例として、電球や蓄音機を発明したエジソンのように、偉大な創造(または偉大な編集)は人の手によってもあり得ますが、エジソンの仕事と比して、僕は自分の仕事を創造と呼ぶのをためらいます。また同じように、自分を創造者(つまりクリエイター)と呼ぶことも躊躇します。それ以上に重要なことは、エジソンのような偉大な人が創造したものですら、後の人々によって改良が施されているのであり、経済的にはむしろ、後の改良を加えた人々のほうが世界に貢献しているように見えることです。そして、独創的なアイデアのほとんどは、それが独創的すぎるためにあまり役には立たず、消えていきます。
僕がこのようなことを書いているのには理由があります。それは、「クリエイター」と呼ばれる人々が行っている「クリエイティブ」だと呼ばれる作業は、本質的には戦略行動に過ぎないのであって、どこか遠い世界で行われていることではない、ということが伝えたいのです。クリエイティブと呼ばれていることの本質は、もともとある材料を組み合わせてアイデアを創出する作業と、そのアイデアを技能に基づいて形にしていく作業なのであって、つまり誰にとってもとても身近なものだ、ということです。ブログを書いたり、料理をしたり、自動車を運転して目的にまで移動したりするようなこととそう大差はありません。
そして、それらは誰にとって本来身近なものであるだけでなく、少し意識することによって大きなリターンが得られるということもまた重要です。サイトの所有者であれ、企画者であれ、制作者であれ、すべての人が、ユーザーが「そのコンテンツを利用したいという動機」や「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」を高めるための最適なシナリオや演出を意識することによって、コンテンツの品質は飛躍的に高まるはずです。そうしたことは、プラットフォームとしてのユーザビリティやアクセシビリティを超えて、またはSEOを超えて、サイトの有意性を高めていくことになるでしょう。
ユーザーに「そのコンテンツを利用したいという動機」や「そのコンテンツによって得られるものを他者とシェアしたいという動機」を持たせるようなコンテンツがなければ、ユーザビリティもアクセシビリティもSEOも、なんら価値を生み出すものではありません。よく「最後は優れたコンテンツ」と言われるのはまさにこれです。そして、「優れたコンテンツ」という漠然とした言い方ではわかりにくいものですが、その正体は極めてロジカルに、誰もが考えることのできるものなのです。これを読んだすべての方が、「優れたコンテンツ」について考えてくれることを願います。



