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ソーシャルメディアとしての近江商人にみる志の高さ

人は皆、裸で、何も持たずに生まれてきたのです。それを振り返った上で今の自分を見て、一体何が足りないと言えるのでしょう?
今の僕なら、着ている服もあるし、今日の食事を取ることが可能な程度のお金もあり、借り物ではありますが雨露を避けることのできる屋根もあります。確かに、明日のことはわかりません。一年後、十年ごともなると、まったく見当もつきません。その見当もつかない未来に執着して、不安を感じ、あれが足りない、これが足りない、などというのは、僕にはおそろしくナンセンスなことに思えるのです。未来などわからなくて当然、むしろわからないということ自体を楽しめるような心持ちでいたいものです。

しかし、僕が以前「貪欲な豚と満足した豚。僕は満足した豚なのか?」で書いたように、資本主義経済は物質的・金銭的な欲望を拡大再生産することによって回っており、この格差社会の中で禅僧のように「足るを知る」のようなことを言っていては、負け組としての人生が待っているのみです。僕は先のエントリで、今の時代、この日本で生きていくこと、そしてそこに何らかの意義を見いだすことは、本当に難しいと感じる今日この頃です、と結びましたが、しかし、ビジネスを通じて自己実現を目指すたいへん志の高い人々もいます。今日のエントリでは、そうした志の高い人を紹介しつつ、応援のメッセージとしたいと思います。

さて、下の文は、「欲求とモチベーション」というエントリの中で引用したものです。

完全なる経営この上ない安らぎを得たいのであれば、音楽家は曲を作り、画家は絵を描き、詩人は詩を詠む必要がある。人間は自分がそうありうる状態を目指さずにはいられないのだ。こうした欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができよう・・・・・。それは自己充足への欲求、すなわち自己の可能性を顕在化させようという欲求、なりうる自己になろうとする欲求である。

完全なる経営」アブラハム・H.マズロー

この中で語られているのは「自己実現の欲求」についての話ですが、ビジネスを通じて自己実現を目指す方法として、我々日本人は、マズローを引くまでもなく、近江商人という偉大な先達がいることを忘れてはいけないでしょう。その昔、近江商人たちは「三方良し」ということを言ったそうです。三方良しとは、「売り手良し、買い手良し、世間良し」ともいい、売り手、買い手、そして世間の三方が、共に利益(もちろん物質的・金銭的なものだけを指すものではありません)を得ることをいいます。三方良しとは、これらのどれが欠けても商売はうまくいかないという近江商人の戒めであり、教訓であり、志です。以下は、「ネットに住む近江商人」を自認する上原さんのブログからの引用です。

『商売とは、世のため人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり』

世間様への奉仕なき利益に理などない
道理の下に得た利益を疎んじることはない

ただひたすら、嘘のない創造と商売を。
毅然と胸を張って、この訓を唱和できる経営を。

商売 | 近江商人 JINBLOG

近江商人というのは、その昔、京や大坂、江戸といった大都会だけではなく、山間の僻地にも物を売りに行ったそうです。そうした誰も外部の人が近付かないような僻地では、京や大坂、江戸などの珍しい品物を持って来てくれる近江商人は歓迎される存在で、「近江商人が来はったで」と人が集まったそうです。それは、未開の僻地でただ品物を売るだけではなく、品物にまつわる文化を僻地に伝えるという役割を、近江商人が担っていたからだといいます。ただ織物や線香や数珠などの品物を売るだけではなく、それらの使い方や使うための心までを伝えていったというのです。織物であれば服飾文化や粋や風流を楽しむ文化を、線香や数珠であればその使い方だけでなく神仏や先祖を敬う文化までを伝えて、僻地の人々に情報や文化や心や楽しみを届けていたのです(参考: 近江商人の哲学他)。これはかつて、富山の薬売りが薬だけではなく健康維持のための様々な情報なども全国化国地伝えていたこととも共通するものでしょう。彼らはただ品物を売っていただけではなかったのです。

さて、上で引用した上原さんが述べていた「商売とは、世のため人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり」といったものの他にも、「他国へ行商するもすべて我事のみと思わず、其の国一切の人を大切にして、私利を貪ること勿れ」などというものあり、いずれにしても、近江商人にとって商売とは、他者に対してあまねく功徳を施すという、仏教でいう「利他行」や「菩薩行」のようなものであったようです。近江商人の哲学については、財団法人滋賀県産業支援プラザホームページ内の「三方よし」に詳しいので、興味のある方はそちらを参考にされるとよいでしょう。

ここで面白いのは、先の上原さんは最近起業してマイネット・ジャパンという会社を興したのですが、その理念は「どこでもドアを実現する」であり、どこでもドアとは「会いたいときに、会いたい人に会える社会の姿」を指しているのだそうです(同社ホームページより)。そして、そのマイネット・ジャパンが最初にリリースしたサービスが、ソーシャルニュースサイトの「newsing(ニューシング)」です。同サイトの説明文によると、newsing(ニューシング)は、日本初のソーシャルニュースサイト。ユーザー自身が面白いニュースを探し出し、みんなでそれにコメントや投票をしてニュースの順位を決めていくサイトです、とあります。

ここで思い出すのは、先に述べた、全国を旅しながら、都会の品物や文化を全国に伝え歩いた近江商人の姿です。彼らは品物だけではなく、文化や情報や楽しみまでもを全国各地に届けました。つまり彼らはメディア、しかもソーシャルメディアだった。このいにしえの近江商人の姿と、ネットに住む近江商人という現在の上原さんの姿が、どれほどの整合性を持って重なることか。現代の上原さんの会社では、Webを使って、全国各地の(場合によっては世界各国の)人々が情報を受け取るだけではなく発信もできるようにして、いにしえの近江商人がそうしたように、文化や情報や楽しみを伝える役割を担っているのです。

その昔、近江商人のほとんどは卸業で、どこかで仕入れたものを別の場所で売る、というビジネスモデルを持っていました。仕入れる場所も売る場所も全国ネットワークでしたから、品物もそれにまつわる情報や文化も全国規模で、あらゆる品物や情報や文化を、あらゆる場所で仕入れ、あらゆる場所で売っていたのです。そして、売り手も、買い手も、そして世間も、みな近江商人に感謝しました。まさに「三方良し」です。現代の近江商人である上原さんもまた、扱うものはいわゆる「品物」ではないかもしれませんが、まさに「どこでもドアを実現する」という志の元に、「三方良し」を実践しているように見えます。

近江商人はその昔、天秤棒をかついだ小商人だった時代から、商売というものについて、「世間や人々の中で行うもの」であるという社会認識を持っていたと聞きます。この近江商人たちが脈々と受け継いできた社会認識のあり方が、現在の、ソーシャルネットワークやソーシャルメディアなどが取り沙汰されるインターネット社会に適合しないはずがありません。いささか個人的なまとめになってしまって恐縮ですが、「ユーザー良し」「ソーシャル良し」だけではなく「マイネット・ジャパン良し」もしっかりと追求し、良いユーザーと良い社会に貢献できるよう、上原さんやその仲間たちには存分に腕を振るってもらいたい思います。近江商人の志が大きく羽ばたくときは、世界が平らになった今をおいて他にないでしょう。

# 上原さん>創業のお祝いらしいことはまだ何も言っていなかったと思いますが、これで勘弁してください。

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