第二次世界大戦終結の1945年(昭和20年)から1958年(昭和33年)まで13年間に渡って、舞鶴は引き揚げ者の受け入れの地だったそうです。舞鶴だけで66万4531人の引き揚げ者を受け入れたそうで、舞鶴引揚援護局は「岸壁の母」などで知られています。僕はこの日、西国四十九薬師霊場第30番の多祢寺へと向かう途中、その舞鶴引揚援護局の跡地を見おろす場所にある引揚記念公園と、復元された引揚桟橋を見学してきました。下の写真は公園の中にあったブロンズ像「平和の群像」です。

とはいえ僕は、引き揚げについては母から聞いた断片的な話(僕の母は満州からの引揚者です)と、大藪春彦の小説「野獣死すべし
」や五木寛之
の小説「青春の門〈第1部 筑豊篇〉
」あたりで少し聞きかじった(読みかじった?)だけですので、特別な思い入れはなく、まさに通りがかりに寄ってみた、といった感じで、資料館は見ていません。下の写真は印象的だった「トンビに注意」の看板。たしかにトンビがたくさんいて怖かったです。

下の写真はシベリア抑留を歌った「異国の丘」の歌碑。

下の写真は「ああ母なる国」の碑。帰ることのない同胞の望郷の御霊を慰めながら、岸壁の妻、母の嘆きをこにとどめているそうです。

そして下の写真は「望郷慰霊の碑」で、背後に見えている橋は「舞鶴クレインブリッジ」です。

この公園から見る「舞鶴クレインブリッジ」の眺めはなかなかのもので、二羽の鶴をイメージして作られたという橋の全貌を見ることができます。

公園の眼下には復元された引揚桟橋が見えます。

引揚桟橋まで降りてみると、釣りをしている人しかおらず、いかにも平和な感じでした。

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