先週の一週間、すご技術(テクニック・技巧・技芸)に偏ったエントリをいくつか投稿しました。それらにはかなりの反響があったため、新しく僕のブログを見てくれるようになった人たちはかなり増えたようです。しかし先週投稿したエントリたちを眺めていると、少しばかり微妙な心境になります。(僕が投稿したそれらのエントリ群があまりにも下品すぎるために)僕の「技術」というものに対する考え方がきちんと伝わっているのかと不安になるのです。そこで、今回は、僕が技術についてどう考えていて、なぜそれほどまでに技術にこだわるのか、ということについて書いていこうと思います。
技術は基礎であり基本
もちろん僕は、技術(または技巧、テクニックでも)を、必要以上に大切なものだとは思っていません。他に大切なことはたくさんあるでしょう。しかし、僕が初めに言いたいことは、基礎的な技術とは表現や思考の上では欠くことのできない部分であり、いわば創作や表現のための基本や基礎である、ということです。例えるなら以下のようなものです。
- 絵筆を自由に操る技術がなければ、油彩画で自由に表現することはできない
- 鍵盤を自由に操る技術がなければ、ピアノ演奏で自由に表現することはできない
- 言葉を自由に操る技術がなければ、詩や文章で自由に表現することはできない
つまり、何ごとを為すにしても、それが創作や表現のようなものである限り、それを支える技術がなければモノにならない、ということです。精神論を唱える人の多くや高潔を自認する人々は技術を軽視しがちですが、僕はどんなことよりも、それが思考や創作や表現に直結するものであるなら、そしてそれによっていくらかでも人の心を動かそうとするものであるなら、技術と、それを身に付けることは重要なことだと考えています。そして身に付けた技術とは、特段の創造性(クリエイティビティ)を持ち合わせておらず、特別の才能を持たない凡人(僕のように)にとっては、最後の守るべき砦であり、ひたすらに磨き続けていく必要のあるものなのです。
そうした意味から、僕は日頃から技術(テクニックやスキル)に多大な興味を寄せており、その研究や修得には大きな情熱を傾けるのです。特に研究においては、調査した内容をまとめたり、自分なりの結論を導いたりするようなことが欠かせません。その結果として、先週のように、技術に偏ったエントリを連発するようなことも起きるのです(それらのエントリは文末にまとめてあります)。
生きるために必要なこととして
人は生きるために情報収集し、生きるために表現します。情報収集と表現は表裏一体で、ともに人が生きるために必要なことです。そのことについて、僕は以前、下のようなことを書きました。
人は、生命を維持するために必要な情報を求めます。危険を避け、安全を確保するためです。さらに人は、生命の維持だけでなく、社会に参加したり、その中で認められたりするためにも情報を集めます。情報を集め、集めた情報によって自分を変化させ、生きることができるのです。この意味で、情報を集めることは、生きることと同じように重要なことです。
また人は、生命を維持するために表現します。自分の状態や欲求を他者に伝え、必要な援助を得るためです。さらに人は、生命の維持だけでなく、社会に参加したり、その中で認められたりするためにも表現します。集めた情報や、それによって変化した自分を表現し、社会生活を営むのです。「表現」を「コミュニケーション」と言いかえてもいいでしょう。この意味で、表現することは、生きることと同じように重要なことです。
意識しているかしていないかにかかわらず、人は皆、よりよく情報収集したい、よりよく表現(コミュニケーションしたい)という欲求を持っています。それは上で引用したように、生きるために必要なことだからです。そして、情報収集や表現をよりよく行うためには、ある種の技術が必要になるのも確かなことでしょう。そして、情報収集にしても、表現やコミュニケーションにしても、それがある程度のスキルに依存するものだということに異論を唱える人はそれほど多くないのではないかと思います。情報収集や表現を適切に行う技術がなければ、人類は文明を築くことはなかったでしょう。現代に生きる個人にあてはめてみたとしても、僕はそうした技術によって生かされているという確信が生まれるだけであって、その確信はやはり僕を技術へと駆り立てます。それは生きるために必要なことなのです。
そして、技術のというのはそれを学ぶ人が身に付けるものであって、いわば属人的なスキルであり、それは他者が奪い去ることのできない貴重な資産になりうる、ということも重要です。言い替えれば、「芸は身を助ける」ということでしょうか。技術は他のどんな資産よりも身を助けるものであり、他者は技術の表面だけを盗むことはできても、僕からそれを完全に取り上げてしまうことまではできません。技術を身に付けること、芸を磨くこと、というのは、(僕のような持たざるものにとっては)大切な個人資産の形成であると、僕は考えているのです。
クリエイティビティやセンスの欠損を補う
創造性、クリエイティビティ、ということについて僕は、以前次のようなことを書きました。
クリエイトが意味するところが、文字通りの創造、つまり無から有を生じさせることだとしたら、僕は、人がそんな能力を持っていると考えること自体、傲慢以外の何でもないんじゃないかと思ってしまうのです。人は、もともと材料があって、それらを組み合わせることによって新しいものを生み出します。無から有を生じさせる、つまり創造(クリエイト)するわけではありません。オマケをつけるとか、編集するとか、演出するという言い方のほうがむしろ近い気がします。
(中略)
僕がこのようなことを書いているのには理由があります。それは、「クリエイター」と呼ばれる人々が行っている「クリエイティブ」だと呼ばれる作業は、本質的には戦略行動に過ぎないのであって、どこか遠い世界で行われていることではない、ということが伝えたいのです。クリエイティブと呼ばれていることの本質は、もともとある材料を組み合わせてアイデアを創出する作業と、そのアイデアを技能に基づいて形にしていく作業なのであって、つまり誰にとってもとても身近なものだ、ということです。ブログを書いたり、料理をしたり、自動車を運転して目的にまで移動したりするようなこととそう大差はありません。
上で引用したエントリで僕が言いたかったことは、世の中で「クリエイティブ」とか「クリエイティビティ」とか言われていることを単純化すれば、そのほとんどは情報や材料を収集し、一見すると関連がなさそうに見える別々の情報や材料を組み合わせることによって新しいアイデアを創出するということにすぎない、ということです。この考えは何も目新しいものではなく、過去に「アイデアは作り出せる 」や「ソーシャルメディアの編集と知の生産
」といったエントリで紹介してきたとおりです。
僕は一般的な意味でのクリエイティビティや創造性といったものについて、少なくとも、そうしたもの発揮するだけの技能や知能を僕自身が持ち合わせているとは考えてはいません。そして、一般的にクリエイティブだと言われるものの中にも、技術の固まりでできているようなものがたくさん見ることができます。例えばハリウッド映画。ハリウッド映画はどれも間違いなく素晴らしく、観る人に感動や娯楽を確実に与えてくれますが、しかしそれは狭義の芸術ではなく、緻密な技術に基づいたものです。緻密に設計されたシナリオライティングやキャスティング、演技、照明やカメラワーク、VFX 、編集、そしてプロモーション、といった技術の集合体として、完成されたエンターテイメントが提供されるのです。そうした技術は素晴らしいものです。うまく真似れば、きっとよい結果を生むでしょう。僕はこうしたものを積極的に真似たいと考えていますし、多くの人(凡人であればあるほど)がそうすべきだとも考えています。
僕は何も、仕事やブログで芸術をやりたいわけではありません。ユーザーや読者によりよい体験をもたらしたいだけです。そしてそれは、ほとんどの場合、技術や技能が解決してくれる種類のものです。僕の仕事はウェブマーケティングを必要とする普通の、平凡な人々に、そのノウハウやプラットフォームを提供することです。世間の大多数の人は、僕と同じく凡人であり、天才的なひらめきや生得的な才能とは無縁の人々です。そうした人々(僕含め)にとって、地に足のつかない崇高で高尚な議論は、何の役にも立ちません。凡人の一人として(またはそれ以下の人間として)、僕は凡人の役に立つ技術を身に付け、それを表現したいと考えているのです。
僕が技術というものについて考えているのはだいたい以上のようなところです。たいへんな長文を読んでいただきありがとうございました。なお、先週連発した技術に偏ったエントリ群とは、以下のようなものでした。
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