一通のメールとジョン・コルトレーン

どこまでも真摯で、禁欲的で、妥協のない求道者として生きたジョン・コルトレーンの姿は、自堕落で享楽的な僕とはあまりにも対照的で、彼の音楽を聴くたびに、僕は自分自身への強い否定感に苛まれます。彼は傷つき、悩み、学び、葛藤し、成長し、自分自身や音楽の原点を模索し、それらを掴みかけるところまで到達し、40歳の若さでこの世を去りました。どこまでも妥協なく自分自身と向き合う人生。一体どれほどの勇気があれば、彼のように生きられるのでしょう?

テナー・マッドネスあまり知られていないかもしれませんが、コルトレーンは1956年に発表された「テナー・マッドネス」の表題曲で、ソニー・ロリンズと協演しています。カリビアンらしく歌うように開放的な明るさをたたえたソニー・ロリンズの音色に引っ張られるように、コルトレーンも他の音源にはないほど明るい音色を奏でますが、それでも歌心あふれるロリンズの前では、コルトレーンのパートは沈んで聞こえます。

ブルー・トレイン本当のところはわかりませんが、僕の個人的な考えでは、コルトレーンがその直後に完成させた「シーツ・オブ・サウンド」と評されるスタイルは、このソニー・ロリンズとの協演もそのきっかけの一つになっているのではないか、と思えてなりません。テナーサックスの音域を超えた高音で空間を隙間なく埋め尽くそうとしているかのようなコルトレーンのスタイルは、追い詰められた者の命を賭けた祈りのようであり、神が創造した世界を祝福するようなソニー・ロリンズの音色とは対照的で、ソニー・ロリンズのそれに抗うことによって完成したかのように思えるのです。

至上の愛(デラックス・エディション)その後のコルトレーンの、自由な音楽性を突き詰め、宗教性や神秘性と理論性を両立した形でフリー・ジャズへと到達していく様は、思考や表現を突き詰めていく人間の究極の姿であるように見えます。マッコイ・タイナーやエルビン・ジョーンズらと生み出した数々の名作たちは、抽象的でありながらも理論的で、精神的でありながらも身を削るほど肉体的で、その迫力は聴く者を否応なく圧倒します。

そう、僕はコルトレーンが嫌いです。彼は偉大すぎるのです。彼の音は人間としての僕を追い詰め、矮小な僕を完膚無きまでに叩きのめします。僕は、彼のように真剣に思考することもできず、彼のように真剣に表現することもできず、彼のように真剣に学ぶこともできず、彼のように大きく成長することもできません。

なぜ、僕がこんなことを書いているのか?
それは、ある人から今朝届いたメールがきっかけです。美しいアルトサックスの写真が添付されたそのメールには、僕が長年にわたって抱え続けている病気に対する心遣いの言葉が短く綴られており、その文末は「J,コルトレーンの祈りを込めて」と結ばれていました。

J,コルトレーンの祈りを込めて。
もし僕に、その祈りのほんの片鱗だけでも理解できるようなことがあるなら、僕の旅路も少しは力強いものになるのかもしれません。いや、自分自身が力強く歩むことによって、その祈りに近づいていくのかもしれませんね。

大阪も今日は雨です。

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